ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」川内有緒さん著

美術の見方が変わる本です

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目の見えない人が、美術館で何を楽しむのだろう?

そりゃ、まずは同行者の説明を聞くだろうよ

例えば、「大きさは2mくらいの絵で、女の人が5、6人いて、鋤で藁を集めてるっぽい。男の人は二頭の牛を連れて・・・」

・・・みたいな説明をしても、そもそも景色を見たことがない人もいる

じゃあ、何を楽しんでいるんだろう?

白鳥さんはどうやら、目が見える人とは楽しみ方が違うようだ

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同行の人が白鳥さんに何がそこにあるのかを伝えようとして絵や作品を見ると、たいてい普段より詳細に正確に見ようとする

すると、いつも見逃していた細かいことに気づいたり、違う視点が見えてきたりする

「あれ、牛だけど子牛じゃない?お互いのツノを棒で縛ってる??」

「あれ、緑色の大きな牛だと思ってものは、草の壁だった」

複数の同行者がいると、それぞれが違うことに注目していたり、作品を全然違うものとして感じ取っていたりする

そして、お互いの言葉が飛び交ううちに、作品に対するイメージがどんどん更新されたりする

・・・どうやら白鳥さんはその絵や作品を前にして、そこにいる人たちが作り出す時間を楽しんでいるようなのだ

絵画や彫刻などの作品の存在を、時間芸術の音楽のように味わっているのかもしれない

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なんだろう、本当のところが何なのかはわからないけど、白鳥さんの楽しむ芸術のあり方も楽しそうだと思えてきた

楽しみの次元はいくつもあるし、別に見るだけが楽しみでもないし・・・そうか、白鳥さんはインスタレーション・アート(wiki )を常に楽しんでいるのかもしれない

自分が今いる場所に起こる一回きりの出来事、自分と周りの人の間におこる、ある作品を前にした言葉とイメージのやりとり、というインスタレーション

・・・あくまで想像だけど

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普段の会話でも出来そうな気がするけど、おそらく作品という一本の柱があったほうがやりやすいのだろう

作品という主役がきちんと鎮座しているほうが、周りの人は自由に好き勝手なことを言いやすいってのはよくあるし

そして、アートが持つ今までと違うところに突き抜けようとする力が、また私たちの言葉をいつもより違うところに連れて行くのかもしれない

そういう自分を含めた周りの人たちが自由に振る舞うなかで、人が変化する瞬間に居合わせるとしたら、それはすごい深い楽しみの気がする

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うーんこの本を読んで振り返ってみると、アートという常識から自由になろうとする行為を、逆にその鑑賞の型を自分に課して不自由な形で見ていたような気がする

他人と話しながら笑いながら、作品に接するのってすごくいいじゃんよ?

作品の前に一人で黙って見て、自分のそれまでの知ってる枠組みのなかだけで理解しようとするのって、つまらないなーと

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突然だけど、同行二人というお遍路さんをするときの、弘法大師が常にそばにいてくれるという言葉って、バーチャル白鳥さんがそこにいる、という感覚に近いんじゃないだろうかと

弘法大師と架空の会話を重ねて行くことで、一人では成し得なかったことが出来たり、いつもは見えなかったものが見えてきたりするんじゃないだろうか

そう考えると、障害者という言葉はいったいなんだろうか

おそらく経験と想像力が足りない人が作った言葉なのだろう

・・・もちろん自分も含めて