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糸井さんは、吉本さんから多くのことを学んだと常日頃言っていて、僕はその糸井さんの言葉を「ほぼ日」を通じてここ十数年毎日のようにあびてきた
しかし勝手な自称孫弟子と言っても、吉本さんの言葉も分からない
たとえば
だいたいの感じで言えば、知識なんて四世紀くらいのね、日本国家の始まりのあたり、古墳時代くらいまでに出尽くしているんです
(・・・中略・・・)
「こころ」とか「魂」っていうものが、ちゃんとできたぜって時期は、ヨーロッパで言えばギリシャ・ローマ時代くらいまででね(本文より)
_____そうやって言われてみれば、どっかの時代で人類として「心」の大きな発展は止まってしまったのかもしれない、という気はしてくる
吉本さんがそういう根拠は、気持ち・感情というのは内臓語であり、大脳を通さないものだから、大脳が発展する時代の変化はもう関係ないということなんだろう
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そうであるなら個人的には、大きな宗教が出揃った時代が区切れじゃないかと思う
「アニミズム」、「一神教」のユダヤ教、「悟り」の仏教、「多神教」のヒンドュー教が出たあたりで人類の「心のパターン」は出尽くしたんじゃないだろうか
吉本さんは、キリスト教が広がったくらいまでの時間を含めて言ってるのだろうか?
ギリシャ・ローマの話を出してるから、ギリシャ悲劇やローマ帝国の文化に何か特別な広がりがあるんだろうか?
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またもう一つの疑問というか、吉本さんの仮説からすると、その4世紀以降のヒトの生きてきた時間、これからヒトが生きていく時間はなんなのか、と
別に意味はなくたって、生きものだから生きていくわけだけど、大脳だけの発達の時代が続いていくということになる
それを象徴するのが、吉本さんが体験した病院での生活で、それはユートピア的管理社会だったという
自分がやってほしいことを言えば、やってくれるんだけど、自分でやりたから自由にやりたいと言えば、それはだめだ、という(本文より)
善意と熱意にあふれた、それでいて重い管理社会
この話は、ほぼ日の糸井さんと幡野広志さんの対談の大きなテーマに受け継がれている
結局、4世紀以降の人間は、「心」において何かを発展させたというよりは、大脳が発達した分だけ、逆に「心」の働きを阻害するほうに来ているんじゃないかと
幡野広志さんの言葉が僕たちに響くとすれば、吉本さんの時よりも、より一層「心」をちゃんと大事にしないとって、みんなが感じ始めているのかもしれない
ああ、この吉本さんの言葉を物語にしたのが、娘の吉本ばななさんの作品なのかもしれない
僕は吉本ばななさんの作品をほぼ読んできて、それを言葉にするなら
「「心」を大事にする、こういう世界もありなんだよ」という救いを小説という形で提案しているんだと思う
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ずっと糸井さん、吉本ばななさんの言葉と向き合ってきたのが、実はその向こうに吉本隆明さんがずっといたんだな
やっと会えましたねって