「そうだ魔法使いになろう」吉本ばななさん、大野百合子さん対談本
ば)それこそ前世(があるかどうはほんとうにはわかりませんが、私の中ではあるほうが面白いというふうに思ってます)からのご縁で、・・・
少なくとも、このスタンスでいける人には面白い本
本によると例えば、人間とは「宇宙生まれの永遠不滅の魂」と「地球生まれの物質から進化した肉体」のコラボレーションであり、平均350回転生すると
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個人的にはもう、その人がうまく生きれるなら(他人にあまり迷惑かけないなら)、何でもありだろうなと思うようになってきた
・・・しかも正しいかもしれないし(350という数字自体がより気になる)
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考えさせられたのは、「祈りも強く祈ると、呪いと同じになってしまう」という話
「祈り」と「呪い」は全然目的が違うけど、「他人が違う状態になることを願う」という形は一緒
つまりは「他人を操作したい」という欲望の形が一緒だから、何かの「自然さ」を邪魔している感じはする
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「じゃあ、病気の家族や友達がいたら、回復するように祈るのはダメなの?」と聞かれたら、どうするのがいいのだろう?・・・実際、自分も今まで祈ってきたし
今思いついたことを書くと、親しい人が病気の時に一番、相手の回復にプラスになっているのは、(祈ったことでも、何かしてあげたことでもなくて)全く別なことなんじゃないかと思う
私たちの意識が想像できる ” 回復 ” や ” 健康 ” は、「ものすごく狭い範囲だったり、浅い理解である」可能性が高くて、そのイメージを相手に押し付けるのは、「相手の自然な体の働き(回復とか)を制限するモノ」になるんじゃないかと
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結局のところ、親しい人が病気のときに自分がすべきことは、「相手の体の働きを害さない」ことに尽きて、それは
・自分が幸せで居続けること(不幸を伝染させない)
・相手のしてほしいことを自分が我慢しない範囲でやる(不満を伝染させない)
ぐらいなんじゃないかと
一見冷たいくらいの、このスタンスが保てれば、実は一番相手にとって良いことじゃないかと思う
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この認識の仕方や振る舞いのあり方は、祈るときだけじゃなくて、普段から他人への接し方の基準としていいような気がする
つまりは、相手がどうであれ自分のスタンスが変わらないってことなのか
そして、自分のできる範囲の外をカバーするための、お金を稼いでおく必要がある
ちょっと分かった気がする