ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 身体は「わたし」を映す間鏡である

「身体は「わたし」を映す間鏡である」甲野陽紀さん他

初めて、「甲野善紀さんの息子さん」ではなく、「甲野陽紀さん」という固有名で覚えることになった

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何より、面白かったのは

体は私たちが思っている以上に、正確に私たちの言葉を受け取っている

という話

たとえば、

「注意を向ける」と「意識する」は似て非なる、全く逆のアプローチ

であり、意識的には同じようなつもりで使っていても、体はその言葉の違いに応じて、ちゃんと反応していたんだと

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解するなら、

「注意を向ける」は「動作」すなわち「からだ系」

「意識する」は「不自然」を作り出す「あたま系」

 

例えば、「つま先に注意を向けて歩く」と「つま先を意識しながら歩く」とか

そのときに誰かに肩を押してもらうと、体の安定感が全然違うことが分かる

・・・自然な体は安定している

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ヨガやストレッチ、運動を指導する人でも、この2つを混同して使っている人は多いため、知らないうちに無用な混乱や不自然を引き起こしているかもしれない

逆に言うと、自分が言葉に敏感になれば、インストラクターや医者に接したときに、

その人が「からだ系」と「あたま系」の言葉の使い分けが出来ているかどうか

だけで、ある種の判断ができそう

身体は「わたし」を映す間鏡である

身体は「わたし」を映す間鏡である

 

 いろいろ宿題をもらえる本なんけど、最大の夏休みの課題は「ま」の話だった

それは、

複数の人間がいるときに、自分や相手を中心とした捉え方をせず、共通して持っている変化しない「ま」に注意を向けて、それに向けてアプローチをすると上手くいく

・・・というもの

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例えばそれは「意見が対立する案件が膠着状態に陥ったときに、利害がぶつからない別の事柄について話しているうちに、問題が自然に解決した」とかなんだろう

別の例で、「剣の練習は『自分が』や『相手が』の意識ではなく、『剣』が自由に動く動線を邪魔しないように、自分が動くことを練習する」と聞いたことがある

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・・・僕の「意識」はこの2つの例を、上手く飲み込めない

それは考えたら当然のことで、「意識」が不自然を作り出して、物事が上手く行かなくなっている、ということを当事者の「意識」が理解できるわけがない

つまり「意識」による理解を諦めて、体による ” 理解 ” や ” 対応 ” が必要なんだろう

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そのことをなんとなく分かっている人たちが多くなって、昨今のヨガやピラティスや瞑想などの人気につながっているんだろうか

これからの時代は、「意識を使わないこと」を学んでいく時期なのかもしれない