「生き物の死に様」稲垣栄洋さん著
個人的な話だが、今日親しい人の祖母が亡くなられた
最後に孫にも会えて、病室で親しい人に囲まれて息を引き取った
孤独死が増えている日本では幸せな亡くなり方の一つだと勝手に思う
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思えば多くの生き物は、一匹で、一頭で、孤独に死んでいく
草葉の陰で、森の中で海の中で、道路の上で、誰に知られることもなく死んでいく
生き物界では99.99%が孤独死で、仲間に看取られるのはいくつかの哺乳類ぐらい
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孤独死が生き物界の絶対的スタンダードなんだと、この本を読むと改めて思う
生まれてから死ぬまでずっと厳しい生存競争があって、僕たちが他の生き物を認識するのは、その厳しい生存競争を戦っている動植物の「生」の一瞬だけ
その一瞬の前後にその生き物がどう過ごしているかをほとんど知らない
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たとえば、セミが子孫をどこに産むか知っていますか?
木の幹に卵を産みつけて、そこから1mmくらいの幼虫が孵って、自分で木を降りて土の中に潜ってそこから数年間過ごすのだと僕は初めて知った
一番びっくりしたのは、木は年輪の一番外側と樹皮の間の一層分だけが「生きている」こと
内側の年輪は全部死んだ細胞でできている
つまり、木というのは「筒」が生きていると思ってもいいんじゃないか?
そして木が枯れると言っても、いつどの段階で木が死んだと言えるのは分からない
挿木でまた生きる木もある
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この本にはないけど、養老孟司さんが、芋虫と蝶の関係は
「別々の生き物が、ひとつの生き物として連結した姿」
ではないかという話をしている
実際、サナギの中では芋虫の体はドロドロに溶けて、全部蝶のために作り変えられる
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そんなキメラ動物みたいな仮説は気持ち悪い、と思うほうが普通かもしれない
ただ、あなたも一匹の精子であり、ひとつの卵子でもあったのが、結合して新たな一つの細胞になってるわけで、なんらかの細胞単位の死がそこには含まれていて、命の連結という意味では芋虫と蝶の関係と同じと言ってもいい気がする
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話がとっちらかったけど、死に様も生き様も、案外わかってないものだなと思いつつ、それがいいのかもしれないと思う
今の日本では90%以上の人が病院で亡くなり、その死に様が明るみに出てしまうのは、生き物として変な気がする
仲間に看取られて死ぬのは嬉しいけど、病院という場に集中するのは不自然だと思う
人の死はもっと多様であるのが普通な予感があるが、そのためにはまず生き方が多様でなければ始まらないのだろう
いろんなことを考えさせてくれる本だった