ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 未来のルーシー

「未来のルーシー」中沢新一さん、山極壽一さん対談

 

とても歯応えのある未来構想だった・・・というか理解しきれなかったのが本当のとこ

現代社会の行き詰まり、つまりは資本主義の行き詰まりは、それがどこから始まったかといえば、それは農耕社会の始まりであると

なぜなら、農耕というのは、「一粒のタネが未来に何百、何千と増える」投資の発想の始まりであり、それが「資本を投下し、未来で余剰となった収益を回収する」資本主義になったと

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農耕というのは基本的に炭水化物を作り出すものであり、種類の少ない食べ物で、多くの人を養うことができ、それが現在の70億の人口を支えている

しかし、個々の人間の体にとっては、炭水化物(農耕)社会が始まって以来、病気になりやすくなっている

その矛盾の解消が将来的にできるか分からないが、個人的には炭水化物に頼らない食生活を・・・と思うがその話は割愛

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そして農耕社会の始まりは環境と自分を分ける発想でもある

環境(自然)を支配して、ロジックによって生産を拡大し、社会を構成していく

それがとても上手くいったので、”いまある科学”も発達して、現在の社会になっている

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しかし、だんだんと「環境と自分を分けて考えるやり方」では、対応しきれない部分が生きものにあることが分かってきた

それは生物分野の話だけでなく、数学や社会全体において、”同じ問題を違う形”で直面していると二人はいう

その解決というのはレンマという発想であり、縄文(狩猟採集)時代の、全体を同時に受け取るような知のあり方だという

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・・・「環境と自分を厳密に分けることはできない」というのを個人的な理解でいうと、たとえば小学校の授業参観では、親も子供も先生も、いつもと違う緊張なり興奮があるので、親は絶対に「普段の(自分がいない時の)自分の子どもの授業の様子が見られない」というパラドックスに近いかもしれない

できるのは、自分がいることで変化した先生や自分の子供の様子から、そうでない時の様子も含めて想像することくらいだろうと

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その知のあり方は、いまある科学とは、”違った形の科学の体系” が必要になってくると

事象を個々に分けずに全体で捉える?ような、捉えている最中にも事象と自分が個々に影響しあって変わっていくことも含む

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 そういう知のあり方や、新しい科学の体系を、縄文時代の狩猟採集社会に戻って、そこに接木として発展させて新たな社会のあり方を作っていく、というのがこの本の提言だろうと理解した(ミスリードがあったらごめん!)

未来のルーシーは、タンパク質がメインの食事をしているよきっと