「日本人にとって聖地とは何か」内田樹さん、釈撤宗さん他による鼎談
そもそも聖地の「聖」って何だろうか?
・・・「きれい?」「不純物がない感じ?」「神に類する?」
チコちゃんじゃないけど、正面から向き合うと意外とよく分からないこの言葉
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おそらく「聖」はそれだけで考えるとよく分からなくて、「俗」とセットで初めて存在しうる・理解しうる言葉だと思う
つまり、「聖」というイメージが最初からあったわけではなく、「聖」と「俗」という「両端」を作ったことで、その2つで世界を分けたら何か理解が深まったような気がする(個人的表現)、というものじゃないかと
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その考えを発展させて「聖地」を考えると、
「なんからの尺度の極み(=聖)にある土地」(個人的表現)
という表現ができる
この本の鼎談によると「聖地」とは、
「日常レベルと大きく違った尺度で物事が展開する場」であり、
「人間のスケールを超えた何かが、人間の意識や体がリセットする場」だろうと
・・・じゃあ、その何かって具体的になによ?というのは本の中でも明らかにされていない
それが正面から表現できないのは、「生きるって何?という謎」に連なる存在だからだと思う
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聖に比較して「俗」というのは何か考えると、「聖地」で日常感から離れてしまった人を、ちゃんと現世に引っ張り戻してくれる「人間の欲がより素直に出てる場」(個人的表現)を「俗」と表現したんだろう
<聖・・・・・・・日常・・俗>くらいの位置関係なんじゃないんだろうか?
その「両極の場」が順番に作用することで、「聖地」はちょうどよく機能するのだと本では言われており、実際そうなんだろうと思う
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さらに尺先生によると、「聖地」は体の中にもあるのだという
「瞑想」はそれを探る手段の一つだろうとも
体内の聖地も具体的にそれが何であるかは分からないけど、接するためには、リアルな聖地と同じ作法が必要であり、もし「瞑想」などで「体内の聖地」に近づけるとしても、ちゃんと「俗」も用意しておいて、現世に戻ってくる方法論が必要な気はする
そうやって思い出してみると、お寺の座禅道場で座禅の開始の際に「木版ー>りん」の順で鳴らし、座禅を終える際には「りんー>木版」の順で鳴らすことは、「聖地」に接する作法に則っているんだろう
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全くの個人的想像になるけれど、村上春樹さんが小説を書く手法として、「意識より深い深い底に潜っていって戻ってくる」という表現をされているが、それはある種、体内の「聖地」に行って、また体内の「俗」に戻ってくるという、一般的な聖地に対する作法と同じことをしているのかもしれない
その「聖地」がなんであるか「俗」がなんであるかは、これまた全然わからないが
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最後に体の聖地に関係するかもしれない、個人的な体験を書く
何年か前に、近くの神社に毎日1時間かけて日参してたころ、帰りの45分ぐらいになると、いつも背中の中心部がモゾモゾする感じがするようになった
ある日、鼻風邪をひきながらも神社に行って戻ってくると、やはり背中の中心あたりに「何か」があるような気がしていた
タイミングは忘れたけど、突然その背中の「何か」は背中を伝わって頭のほうに登っていき、後頭部くらいまで来たあと、「パーン」と光って弾けて散ってしまった
気づいたら鼻風邪は一瞬で治って、スッキリしたことはよく覚えている
それが何なのかは未だによく分からないけど、「聖地」での経験に似ていると気づいた