著者による著書の解説本
内田先生は、フランスの哲学者レヴィナスの翻訳を何冊かされているのだけど、それは単なる翻訳ではなく、内田先生を作っているものだということがよく分かった
たとえば著者は、コミュニケーションというのは、メッセージありきではなく、まず宛先があるのだと言う
” 私宛てだ ” と直感が先にあって、そのあとに内容の理解がくるのだと
そうでなければ、言語という存在も知らず、理解するための道具も持たない赤ちゃんが、言葉を覚えられるはずがないと
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内田先生のこの話はレヴィナスの経験につながっており、長くなるけれどそれを記す
レヴィナス自身は第二次世界大戦では早いうちに捕虜となり、ホロコーストを知らずに過ごしたが、戦争が終わってみると600万人の同胞のユダヤ人が殺されている
その時、レヴィナスには600万人の同胞が殺されて、自分が殺されなかった理由が ” 偶然 ” 以外に説明がつかなかった
つまり、自分が生きている根拠を見出すことが出来なかった
レヴィナスは、ここで自分が生きている根拠はどこにもなく、その根拠(主体性)は周りとの関係性の間に作られるという結論を得る(大事なとこなので表現がズレてたらごめんさい)
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例えば難民が、異教の地で言葉も考えも通じない相手に「ここに(私を助けるような)人間はいますか?」という問いを発したとする
その時に、言葉は理解できなくても、 ” 成熟した人間として ” 、それを私宛てのメッセージだと受け取り「はい、ここにいます」と(自分が)言う時に初めて、主体性が(存在根拠)が現れると
レヴィナスはそうやって(自分は)主体性を選びとろうと
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ただ、レヴィナスはこの難民の立場から、この倫理を作り上げている
ホロコーストで死んでいったユダヤ人の立場から出発した話だから、当然難民の立場からなのはわかるが、そうするとその難民を助ける立場の話でいう主体性を選びとるロジックがどう繋がるのか、個人的にはまだよく分からない
もちろんそれはレヴィナスの話に瑕疵があるということではなくて、シンプルに自分の理解がまだ及んでいない(著作を読んでないからかも)だけの話
( ちなみにこれがレヴィナス入門として一番良いそうで)
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話を内田先生に戻すと、この「メッセージの内容はまだ理解できなくとも、 " 私宛てである " という直感が先に来る」という事の順序の理解が、レヴィナスから内田先生に受け継がれ
そして、僕は内田先生の「下流志向」を読んだときに人生で初めて、”これは自分宛ての本だ!”と直感することになった(つまりは、レヴィナス師匠の孫弟子!)
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またレヴィナスの著作が「本に書いてあることの意味が分かるようになるまで、成熟しなさい」と言い続けているのと同じことを、内田先生の著作も読者に要求している
そうやって考えると、” 私宛て ” というメタ・メッセージは最初から ” 成熟せよ ” を含んでいるのかもしれない
つまり、 ” 私宛て ” と感じられるということは、それが " 自分の成熟を促す " ことを予感できることの言い換えなのかもしれない
願わくばこの本が多くの人の ” 私宛て ” となりますように