ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 街場の文体論(感想つづき)

 「街場の文体論」内田樹さんの感想の続きです(前回はこちら)

 この本を読んで思いついたMY仮説が、

「電子本世代は、(紙本世代より)早く本が読めなくなるのではないか?」

というもので、今日の感想のメインとなるものです

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その出発点は、著者による「何かをすることは、その何かを終えてる自分と、今それに向かっている自分の共同作業である」というアイデアでした

読書ならば、それを「読み終えた自分と、今読みつつある自分の共同作業である」と

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で、その共同作業を担うのが紙本の場合は、「視覚」と「それ以外の感覚」と「脳」である、というのがポイントなわけです

紙本では、読書が進んだときの本を開いたときのバランスの変化、左手に感じる残りページの減少、脂による汚れの進行などを、無意識に「読書という行為」に含めています

つまり「紙本世代は視覚以外の感覚も総動員して本を読んでいる」に対して、「電子本世代は視覚と脳内処理だけで本を読んでいる」という仮定には、同意頂けるのではないでしょうか

二つの読み方自体に優劣はないと思いますが、脳内の処理パターンはおそらく全然違ったものなんだろうと思います

単純に考えて、電子本世代の脳内処理はより複雑化してるだろうとは思いますが

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そして年をとって脳の処理能力が衰えると、

「(触覚などの感覚が担ってた読書の一部分を)全て脳内で処理していた電子本世代は、『読書という負荷』に脳が(紙本世代より)早くに耐えられなくなる」

という仮定が導かれるわけです

逆に言うと紙本読書のように、

「視覚だけでなく触覚などの感覚も含めて、読書という行為を分散処理させておく」

と、負荷分散のおかげで脳が処理できる年数が伸び、より長く本を読み続けられるのではないかと

街場の文体論 (文春文庫)

街場の文体論 (文春文庫)

 

話は少しアレになりますが、先週、移植医の知人から面白い話を聞きました

それは「記憶というのは脳内にあるだけではない」というが最近医学界で言われるようになってきて、脳死移植がやりにくい状況になりつつあるというのです

言うまでもないですが、「脳死が人の死である(もう感覚とか記憶がないから、その人の人間性は失われているハズ)」という前提があっての、移植なわけです

それが、体のあちこちのパーツに記憶が分散されているとなると、「えっ?それはその人がまだ一部でも生きているってことじゃない?」って思う人も多くなって・・・漫画「寄生獣」の世界やん!

閑話休題

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この話を読書につなげると、「紙本読書というのは触覚なども動員してます」という次元だけでなく、そもそも「手にも読書の何がしかの記憶が残されていく???」

・・・新しい仮説過ぎてクラクラです(笑)

いつかこの仮説の理解がもっと深まる日を夢見て・・・

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最後に「ものごとの負荷分散のススメ」の発展として、多くの行為がスマホに集約(ONLY視覚&脳内処理化)されていくことの危うさを思うわけです

年をとって「脳内処理が衰えても、手足に処理が分散されているからできること」という形に、仕事なり作業なりを変換しておく、というのが必要なんじゃないかと

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それは昔の形に仕事を戻せという意味ではなくて、科学技術の発展の方向性として、「脳内処理を手足などの処理に分散させる仕組み」にまで落とし込むという話

それ何?と言われてもまだよく分かりませんが、「生涯(希望したら)現役」である社会がいいと思うので、これから少しずつ考えていきたいなと