「武道論」内田樹さん著
個人的な話だけど、毎日のように神社にお参りし、週に一度お寺に通っている
鳥居をくぐるとき、山門をまたぐときに、なにかしらの挨拶をどこともない空間に向かってしている
人によっては「そんなの非合理的!」って言うと思うし、かつての自分自身もそう思っていた
しかし、この「非合理的!」って思うのが一番のミソであることが、著者の話を聞いててわかった
著者の話を自分なりの言葉に直すと、非合理的なことをわざわざするのは、脳に対して「これから脳の役割を一時的に低下させます」という自分に対する宣言だったと気づいた
そうやって脳の役割を抑えると、体が全面にでてくる
本によると、そうやって場に対する敬意を払ったあと次に大事なのは、体を自分が自由に使うことではなくて、体が自由に動ける状態に整えて、その自分の体を通じて自分の外にある何かが、力を発揮できるようにすることだった
極端にいうと巫女さんに霊か何かが乗り移るように、自分の体をノリシロとして場に差し出して、それに何かが降りてもらうということ
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その話が本当のことかは感覚的に分からないけど、「鬼神のような強さ」・「神かがり的な強さ」という言い方が日本語にはある(外国語にもあるのかな?)
それは、ちょっと強いとか、練習したから強いとか、才能があるから強いではなく、何か自然の強大な力に加勢されたとしか言いようのない、人間技ではない強さを発揮する人物がいる、という感覚が一般的にあったからなんだと思う
そうやって考えると、非合理的とも言える、場に対する礼儀を示すという行為、そしてその場において、整えられた体を差し出す、ということを日常的にできるようにするのが、武道の目指す道なんだろう
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この、場に礼をつくして、体を場に差し出して、人間を超えるなにかを降ろして動いてもらうという作法は、人間が人間であるためのよりしろとして人類が生きている限り残ってゆく気がする