ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 日本人という病

 著者曰く、患者として出会った子どもが「父親の弱さを治すために自分(その子)が病気になったんじゃないかと思える」と。実際、子どもが治っていくと同時に父親が強くなっていったという。

この 「子どもが育つ過程で親の歪みを引き受けて、一旦病んで、それを解消していこうとするのではないか」というアイデアは合点がいく。自分の経験でも、頭でっかちな両親の下で育てられて、ガチガチの頭でっかちな兄弟として育ち、兄弟それぞれに自分の頭でっかちさに痛い経験を通じて気づく。それを治そうと逆に身体的なことに人生を通して関わろうとしている。僕の場合はヨガであり、合気道(予定)であり。

「日本人」という病 (静山社文庫)

「日本人」という病 (静山社文庫)

 

 この日本の「世代-継承型-解決パターン」は欧米にはないかもしれない。日本人にとって、意識している以上に”イエ”という枠組みは未だに機能していて、その中で役割を振られて無意識に演じる中で、親の歪みを継承していくのだと思う。言い換えると、欧米なら”個人”で区切られてる”意識単位”が、日本では未だに”イエ”という単位と”個人”の二つが融合した”境界曖昧意識”になってるのが実感だと思う。

例えばニュースで見る、犯罪者が身内にいるときの家族の振る舞いの差が、日本と欧米との”意識単位の違い”=”歪み単位の違い”を示していると思う。

そして親の歪みは親たちにとって「リアルな根っこ」があるけど、子どもはその歪みを「型」として受け取るのだと思う。根っこがないから子どもはいつか「型」から外れて治っていく。子どもが歪みから解放されるのを見て、親たちもその歪みから自由になれる(けど治らないと決めた人も多い?)。

そしてその子どもたちはいつしか親になり、新たな自分たちの歪みを次の世代に伝えるのだと思う。

僕の受け取り方が正しいのかは知らない。もし正しいとすると「日本は世代ごとにどんどん歪みが変わっていく集団」かもしれない。それを無意識に”普通”だと思っていると、実は「欧米では何世代も、何百年も歪みが変わらない集団」だったりするかもしれない。

そんなことを考える自分の思考の枠組みも、ふかーい日本人としての病を通してなのだと。