今週のお題「読書の秋」
「泣けた」と「泣ける」の違いが重松さんの問題意識の始まりだった。「泣けた」は、” 自分のオリジナルな経験としての涙 ” の可能性があるが、「泣ける」はある一定のタイプの感情を持つものの選別であり、誰にとっても同じな製品のような涙であると。
- 作者: 重松清,茂木健一郎
- 出版社/メーカー: Takarajima Books
- 発売日: 2009/02/07
- メディア: 単行本
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涙の理由はいくつかあるが、一つは痛さからの涙。そしてもう一つ思いつくのは感動としての涙。その感動の涙には「泣ける」涙以外にも、生涯で一度も流さないかもしれないけれど、とても貴重な涙があるという。
それは、人生のパズルのピースがカチッと嵌った時だけに、訪れるかもしれない貴重な経験としての涙。 それは、自分の存在を超えた何かに出会い、それまでの人生の意味と、これからの新たな可能性を感じたときに流される涙だと。
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そういう生き方を称して、「長編小説的生き方」という言葉を個人的に提案したい。この本に出てくる長編小説の定義は、村上春樹さんや宮崎駿さんのように、作者も最初は結末を知らないで作り始める物語のこと。
(最初から枠組みを設定したり、自分を安全圏に置くのではなく)目の前にある物事に対して、自分自身をも賭け金としながら、一つずつ丁寧に向き合っていくことで、結果的になんらかの形につながっていくという生き方。もしくは仕事の仕方。ゴールは見えないし度胸もいるけれど、自分を超えたモノゴトに出会え得る、茂木さんたちのいう感動の涙に出会え得る生き方になっていると思う。
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茂木さんの問題意識は、「その感動の涙を流せる人生を送ることが、ネット社会のフラット化やグローバル化に対する唯一の対抗軸だ」と結論した。
人生で一度流すか流さないかぐらいの涙を基準に生きようという潔さ自身が、その人の人生を作っていくのだと思う。
僕は「長編小説的生き方」でその涙を目指そうと思う。