ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜

 「WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜」佐渡島庸平さん著

現代人の ” 不安 ” と ” 情報の爆発 ” に対して、「コミュニティを作り出す」という方法で解決をはかり、また、その「コミュニティ」はどういうルールだったら上手くいくか?を考える本

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テーマの流れとしては、

・不安を解消するために、SNSベースの新たなコミュニティを作ってそこに属する

・情報を選別する方法として、信頼できるコミュニティを使う・新しく作る

 ー「使う」イメージとしては「食べログ」とか「価格.com」とか

・新たにコミュニティを立ち上げるのは大変だから、そのルールも提案

という感じ

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SNSベースからコミュニティ(関係)を立ち上げるほうが自然、というところに、自分の世代との意識の差を感じて面白かったし、個人的な課題とも感じた

情報の選別手段として、「質をある程度保証されている人間の集団による、人海戦術としての情報濾過と創造」という発想は、どの時代にも権力者レベルにあった仕組みだと思うから、いつの時代にも残ると思うけど、それが個人レベルに降りて来た面白さと同時に、向かう先があまり幸せな未来を感じない気はする

まだ上手く言えない

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大方の部分は面白く読んで、あと気になったことを考えてみた

筆者は「問題解決型」の思考ではなくて、「課題発見型」の思考ががこれから大事になるということを本の中で強調している

その通りだと普段なら普通に思うんだけど、実はその理由がよく分からないことに気づいたので考えたみた

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インターネットが ” 情報の流通 ” をなめらかにしたことが、ライフスタイルの変化を促していると筆者はいう

たとえば「iPhoneを持っていること」が価値だった時代から、(それを使って)「何をするのか?」「どういう動機でそれをするのか?」が価値になる時代だと筆者

思うに、資本主義社会での ” 儲ける ” 唯一の理由「 ” A ” と ” B ” の差」の変遷が、

 ①特産物の差 → ②生産設備の差 → ③賃金の差 → ④情報の差 → 

ときて、今は「⑤ 個人の体や経験、動機の差」しか残されていないからだと思う

つまり、もともと「問題解決型」も「課題発見型」の思考もいつの時代にもあったけれど、いま強調されている「課題発見型」の思考が大事という話は、資本主義の仕組みの発達段階からの要請じゃないかと

とりあえずは、無意識の前提として「現在の資本主義の中で」という隠れた前置きがついていることだけ意識していればいいかなと結論

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この本は「持続可能な経済圏としてのコミュニティ」と名付けられているように、現代社会における、経済ベースのコミュニティのあり方を目指している

なので、それ以外のコミュニティにあり方を探す人には、宗教ベースのコミュニティの存在の仕方の例として「異教の隣人」という本が参考になるかもしれない

関西に来ている外国の人たちが、「どういう形で宗教をベースにしたコミュニティを立ち上げ、継続しているか」を訪問インタビューした本

異教の隣人

異教の隣人

 

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宗教はちょっと・・という人も多いとだろうけども、コミュニティには「人が一緒に集ってご飯を食べることが大事だった」という視点は、おそらくどんなコミュニティを運営するのにも参考になるかもしれない

本 中の人などいない

「中の人などいない」浅生鴨さん著

鴨さんを尊敬してしまった

目的地があると迷う人(@本人談)なのに、新しい道を自分で切り開いていく嗅覚と覚悟が補って余りある

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鴨さんは、勝手に会社(NHK)でツイッターの非公式アカウント@NHK_PRを始めて、NHKと視聴者を結ぶ新たな回路を作り出そうとする

個人的な感想込みの番宣や、NHKと全然関係ない話もする、ゆるいアカウント

公的な立場の人が「オフレコですけれどね・・・」と言って、目の前の人と話し始めるオンレコより面白い会話のイメージじゃないかな?

そうして、@NHK_PRのフォロアーはどんどん増えていった

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コロンブスの卵じゃないけれど、そういう(顧客と普通に話しつつファンが増えていく)企業広報のあり方は、実は一番やりたくて出来なかったことなんじゃないかと

ただ、それをする(できる)人がいなかった

なぜ鴨さんが出来たかと言えば、「最後には、会社での立場よりも人としてやるべきことがある、という覚悟」がフォロアーに伝わったていたからだと思う

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それがよく現れたのが、東日本大震災の時

すでにフォロアーがすごい人数になっていた@NHK_PR(公式)の鴨さんは、自分ができる一番のことをする

テレビが受信できない人のために、ツイッターNHKの避難情報などを流し、NHKに関係なくても避難に役に立つ情報を整理して、またツイッターで流したり

ついには、ある中学生がNHKの災害に関する放送を、テレビが見れない人のために動画で(違法に)配信したURLも、避難の役に立つからとツイートで流してしまう

それで会社をクビになることも覚悟の上で

中の人などいない: @NHK広報のツイートはなぜユルい? (新潮文庫)

中の人などいない: @NHK広報のツイートはなぜユルい? (新潮文庫)

 

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鴨さんが何をしたのか、(コルクを運営している)佐渡島庸平さんの「WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜」を読んだら、言語化できた

それは、これまでの「一方的な情報提供型のメディアの仕組み」ではなく「ファンと相互に話し合えるコミュニティ」をどこよりも先駆けて作り出したんだろうと

その時に実際に見ていたかったなぁ

鴨さん、次は何をするんですか?

 

p.s. もっと知りたい人のためにご紹介

corkbooks.com

本 悪人正機

本 「悪人正機」語り:吉本隆明さん 聞き:糸井重里さん

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糸井さんは、吉本さんから多くのことを学んだと常日頃言っていて、僕はその糸井さんの言葉を「ほぼ日」を通じてここ十数年毎日のようにあびてきた

しかし勝手な自称孫弟子と言っても、吉本さんの言葉も分からない

たとえば

だいたいの感じで言えば、知識なんて四世紀くらいのね、日本国家の始まりのあたり、古墳時代くらいまでに出尽くしているんです

(・・・中略・・・)

「こころ」とか「魂」っていうものが、ちゃんとできたぜって時期は、ヨーロッパで言えばギリシャ・ローマ時代くらいまででね(本文より)

_____そうやって言われてみれば、どっかの時代で人類として「心」の大きな発展は止まってしまったのかもしれない、という気はしてくる

吉本さんがそういう根拠は、気持ち・感情というのは内臓語であり、大脳を通さないものだから、大脳が発展する時代の変化はもう関係ないということなんだろう

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そうであるなら個人的には、大きな宗教が出揃った時代が区切れじゃないかと思う

アニミズム」、「一神教」のユダヤ教、「悟り」の仏教、「多神教」のヒンドュー教が出たあたりで人類の「心のパターン」は出尽くしたんじゃないだろうか

吉本さんは、キリスト教が広がったくらいまでの時間を含めて言ってるのだろうか?

ギリシャ・ローマの話を出してるから、ギリシャ悲劇やローマ帝国の文化に何か特別な広がりがあるんだろうか?

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

 

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またもう一つの疑問というか、吉本さんの仮説からすると、その4世紀以降のヒトの生きてきた時間、これからヒトが生きていく時間はなんなのか、と

別に意味はなくたって、生きものだから生きていくわけだけど、大脳だけの発達の時代が続いていくということになる

それを象徴するのが、吉本さんが体験した病院での生活で、それはユートピア的管理社会だったという

自分がやってほしいことを言えば、やってくれるんだけど、自分でやりたから自由にやりたいと言えば、それはだめだ、という(本文より)

善意と熱意にあふれた、それでいて重い管理社会

この話は、ほぼ日の糸井さんと幡野広志さんの対談の大きなテーマに受け継がれている

www.1101.com

結局、4世紀以降の人間は、「心」において何かを発展させたというよりは、大脳が発達した分だけ、逆に「心」の働きを阻害するほうに来ているんじゃないかと

幡野広志さんの言葉が僕たちに響くとすれば、吉本さんの時よりも、より一層「心」をちゃんと大事にしないとって、みんなが感じ始めているのかもしれない

ああ、この吉本さんの言葉を物語にしたのが、娘の吉本ばななさんの作品なのかもしれない

僕は吉本ばななさんの作品をほぼ読んできて、それを言葉にするなら 

「「心」を大事にする、こういう世界もありなんだよ」という救いを小説という形で提案しているんだと思う

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ずっと糸井さん、吉本ばななさんの言葉と向き合ってきたのが、実はその向こうに吉本隆明さんがずっといたんだな

やっと会えましたねって

本 神は詳細に宿る 感想5

「神は詳細に宿る」養老孟司さん著 感想5

普通私たちが考えている、事実とそれに対するリアクションとしての行動は、例えば

 「A.彼はウソをつく(だから悪いやつ) → C.私は彼を非難する」

という反射的な行動が多いと思う

著者は、AとCの間に隠れている「B.あなたが世界をどう認識するか」が重要だという

つまり、以下のプロセス

 「A.彼はウソをつく → B.私は彼が悪いやつだと認識 → C.私は彼を非難する」

を意識しろと

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養老さんはなぜ、この「B.私が世界をどう認識するのか」を強調するんだろう?

___考えてみるに「自分の世界への認識」はたいてい自動化されており、「Aの事実」と「Cの行動」までがセットになってて、そのままでは他の行動が選べないからではないかと

そしていつも同じ行動になっているのは、自分自身苦しい気がする

自分の「認識パターンの奴隷」にならないために、「自分の認識」を意識化しようと

神は詳細に宿る

神は詳細に宿る

 

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具体的に「B.認識」のバリエーション例を考えて見ると、

「A.彼はウソをつく → B.ウソつきはなくならないと認識 → C.正直な人を応援する」

「A.彼はウソをつく → B.彼は信頼されてもいると認識 → C.その理由を研究しよう」

「A.彼はウソをつく → B.それがどうしたと認識 → C.私は毎日の生活を大事にする」

というように「B.認識」に応じて全然違った「C.行動」が選べるようになる

また、「認識」は気分や体調にものすごく左右されてることに気づけば、よりぶれない行動が選べるようになる

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今日の結論として

・磨きやすい「C.行動」を必死で修練するよりも

・隠れた「B.認識」を意識化したり、バリエーションを増やす

そうすると、人と違った「C.行動」に繋がり、結果として他に類がない「D.成果」が出せるようになると

本 神は詳細に宿る 感想4

「神は詳細に宿る」養老孟司さん著 感想4

 今の日本に生きていて、なんとなく ” 行き詰まり感 ” を感じる

グローバル化やAI化や人口減で、社会と自分の人生の先行きが分からないこと、自分の加齢など漠然とした理由ならあげられるが、その根本の視点を養老さんにもらう

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・人間が本当に利益を得るのは自然からしかなく、その収奪能力が極限まで上がった以上、社会は煮詰まるしかないと(本文要約)

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自分で「地球サイズでのトータル output / input の比率」を考えてみる

グローバル化は人(仕事)の移動だから output / input に変化なし
・AI化は使用エネルギーの増加なだけで output / input に変化なし
・生産性向上は使用エネルギーの増加なだけで output / input に変化なし
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もちろん地球トータルでの話だから、その内部で収奪物の偏りはいくらでも起こる
ただ、その偏りを別としても地球全体での変化が感じられなくなることが、漠然と途方も無い徒労感につながっていてもおかしくは無い
神は詳細に宿る

神は詳細に宿る

 

  * * *

閉塞感というか行き詰まり感を一時的にでも解消する方法は、新たな自然の収奪法を考えるくらいしかないんだろうか

そうであれば残された自然は、人間自身の自然かもしれない

・自分の体から湧き出るものを形にする:アート、ダンス

・自分の体の内部に潜っていく身体技法:学び、スポーツ、武道、瞑想

この2つの方向性への技法の深化が、次の自然の収奪方向かもしれない

本 神は詳細に宿る 感想3

「神は詳細に宿る」養老孟司さん著 感想3

養老さん曰く

ヒトが使う情報系には2つある

遺伝系と神経系

言われてみるまで気づかなかった

とくに神経系が情報を扱っていると意識していなかった

自分の言葉で言い換えると、

・化学物質による「情報」の保存を扱う遺伝系

・脳やホルモンなど、刺激や反応を電気信号と化学物質で「情報」として使う神経系

それぞれ 血と氏に相当するわけで、昔の人はちゃんと2つの情報系を意識していたんだなと、負けた感

神は詳細に宿る

神は詳細に宿る

 

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生き物はどちらの情報系を最初に扱うようになったんだろう

仕組みの単純さからいったら神経系が先じゃないかと思うけど、もし神経系が先に発達したとしたら、かなりヘンテコな生き物だったかもしれない(失礼!)

自己複製をするための「情報」を内部に保存できないわけだから、周りの環境を鋳型「情報」として、そこに神経系の反応を繰り返すコトで複製を作るとか

案外、生き物の定義は広くなれるかもしれない

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話を最初に戻すと、私が神経系を「情報系」として「認識」していなかったことは、個人的な迂闊さもあるけど、人類共通の盲点なのかもしれない

つまり、「認識」を担っている脳自体への自己言及は、その根っこの部分が「認識の認識の認識の・・・」という無限ループになって闇の中に消えていくから、最後までスッキリ分かることができない

つまりは神経系の存在を「前提条件」(=見ないもの)としてしまう

養老さんは昔に「唯脳論」でそのことを言ってるのだろうけれど、その理屈を納得している人でも、普段の思考の際には無意識に神経系の話を除外しており、「自分の外に客観的な事実がある」という話をする

例えば科学とか

本 神は詳細に宿る 感想2

「神は詳細に宿る」養老孟司さん著  感想2

 * * *

もし「今から『情報』を定義してください」と言われたらどう言えるだろう?

①物事の属性の一つ、②見えないもの、③抽象化したもの・・・(今ひとつ)

そこに養老さんはこれ以上ない明快な定義を言う

時を経ても「同じ」であるもの、それが「情報」である

・・・すごいシンプル

言われてみれば、そんなような気もするけど

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「情報」という概念がなかった時代の生活を再び想像してみる

 天気、自然、モノ、自分、周りの人、動物、すべてが変化していき、変化しないものはほとんど見当たらない

そんな中で、「狩り・農耕・採集の方法」、「先祖の教え」や「しきたり」などは、自分が小さい時から死ぬ頃まで変わらない特別なモノ

・・・たしかに「情報」は変化しないもの、と言ってもいいような気がする

神は詳細に宿る

神は詳細に宿る

 

 * * *

また養老さんは、

「意識」が扱えるのは「同じ」ものだけである

という

これまた、ほんとう?って思ってしまう

なんか「意識」って色々やってそうだけど??

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これも想像してみる

狩猟採集生活において、狩りが①同じパターン、②違うパターンを考えてみる

 ①「このパターンは前回と『同じ』だ!」「だから過去の経験を使おう」

   =>>「意識」の働き

 ②「このパターンは前回と『違う』!」「だから何をしていいか分からない!」

   =>>「違い」の受け取りは感覚の働き =>> 未経験には本能で対応

  (*もし少しでも何か出来るというのは、一部が過去のパターンと「同じ」)

 

こうやって考えるとたしかに、「同じ」の時にしか「意識」は働いていない気がする

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まとめると「意識」が扱うのは「同じ」であり、つまりは「情報」であると

意外な結論だけれど、「意識」が扱うのは「情報」だけなんだ