ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 運命の恋をかなえるスタンダール

 「運命の恋をかなえるスタンダール水野敬也さん著

万平聡子は過去にトラウマがあり男の人とうまく付き合えないまま大人になってしまった。あるとき本棚からなぜか本が一冊落ちてきて、それがスタンダールの恋愛論だった。そこからスタンダールの恋愛指南が始まる。。。

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個人的にとても、とても、ためになった。恋愛妄想派の人はきっとこの本の主人公、万平聡子と(含む自分と)同じ失敗をしているハズなので紹介したい。

恋愛妄想派の人(含むガールズトークの盛り上がり)は、相手のことを自分が勝手に都合よく考えている間に ” (相手の)結晶化作用 ” がどんどん進んで、なのに実際の関係はそのままで、そのズレが大きな原因の一つとなっていつも失敗する。

相手のことを妄想する時間を減らし、相手にとって ” 自分 ” が結晶化作用を起こすために行動をしていく。このこと一つでも妄想派の人には転機になるんじゃないだろうか。

運命の恋をかなえるスタンダール

運命の恋をかなえるスタンダール

 

改めて言うまでもないんだろうけど、相手にどう思われるかを気にせずに自分が素直に感情を出して、これは好き、これは嫌いというのを相手の会話の中で普通に出していくのが一番いい。だから気にしてない相手には好感を持たれることが多くて、気にしてる相手には自然になれないから好感を持たれにくい。

そういう自然さをまずは目指して、その中に少しだけいたずら成分をいれよと。悪女成分をいれよと。小悪魔成分でもいい。気があるかも?そぶりをちらっと入れて、ほっとくとか。相手の周りの人に親しそうに振舞って嫉妬を煽るとか。そこだけはプラスαのテクニックで。

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そんなん当然じゃん!って人にはおよびのない本なので、結晶化作用にピンと来た人は読んでみると水野敬也さんに感謝したくなるかもしれない。ちゃんと小説としてのオチも用意してるのはさすが。

本 考える練習帳

「考える練習帳」細谷巧さん著

得たもの3つ

 ・川上思考ー川下思考

・知らないことすら知らないことを、知らないことを知ってることに

・プレゼンや説明をするとき、構成は考えて作り、伝えるのは感情に訴えて

考える練習帳

考える練習帳

 

 いくつか考えを整理させてもらえた。

AI時代にどう考えていくか?というのが著者の出発点。まず川上思考と川下思考という見取り図が出てくる。

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川下思考        ーーーーー 川上思考

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川下思考の分野ですべきことはルールにきちんと従うこと、疑問をもたずにどんどんこなすこと。処理すること。つまりは現場。

川上思考で求められるのは、なぜか?を考えたり、そもそもを疑ったりすること。疑問を作り出すこと自体が大事。

自分がいる場所がどちらで、どちらの思考を大切にされているかをきちんと見極めて動かないといけない。特に中途半端に考える人は(自戒を込めて)。

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そして、川下思考の場というのは問題設定が決まっており、それを解決する・処理することがプロセスの大半になるわけで、AIが代替しうる。そう考えると今後、どれだけ自分を川上思考の打席に立たせるかが大事になってくるんじゃないか??そこで何をするかといえば、

 「知らないことすら知らないこと」:川上

       ↓

 「知らないことを知っていること」:川中・川下   

に変えていくことだと。つまりは ” 問題 ” を自分で探りあてるのがすべきことだと。適切な問題が設定されれば解決は他の人かAIに任せればいいと。

もちろん同じ人の中でも川下思考で動く必要がある場面は多々ある。川下から川上まで往復運動を意識せよというのが最終的なバランスだと思う。

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そして世の大半は「考えない人」でできていると認識すべきと。もし「考える人」が他人に説明するときには、普段の言葉遣いや抽象度で話しても、それは伝わらないことを認識せよと。具体化して、個別化して、経験化して、感情に訴える所まで練って、やっと伝わると。

そうしないと、その「考える人」は、伝わらないことを力説する「変な人」か「イタイ人」扱いされてしまうのだろう。

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中途半端に考える人間として、伝わらない失敗経験だけは事欠かない。その理由と改善策がわかったことはとてもありがたい。そして、川上思考が必要とされる仕事は何か?という視点で仕事を見られるようになったこともめっけもん。

本 会社はこれからどうなるのか

 「会社はこれからどうなるのか」岩井克人さん著

この本は本当に面白かった。資本主義の根本である「差異」の時代的変遷を追うことで、これからの自分の仕事って社会の中でどういう位置づけ、意味づけがあるのか?という遠回りだけど着実な足元を作ってもらった気がする。

その変遷を言葉にしてみるなら「あっちの町だとこれ売ってないから持って行けば高く売れるよ?的な商業資本主義から、生産設備もっとるけん、どんどん若い人来て働ていやーっていう産業資本主義になり、賃金あがったけん設備持ってても儲からんから、ブランドとか知的財産とか、デファクトスタンダードとか「情報」の差異で稼ぐんや!のポスト産業資本主義と。」という感じなのかな。

そして、国ごとの成長時代のズレが、そのまま高度成長期のズレになり、停滞期のズレになり。この話の延長でいうなら現在の日本の産業構造は、産業資本主義の後期に特化されており、そこからポスト産業資本主義に移行する時の混乱した(停滞)状態にあると。アメリカは日本の高度成長期にすでにポスト産業資本主義に移行するための停滞期を迎えていたと。

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)

 

 そういう社会構造の変化を前提として、その中で会社がどうなっていくか?という話に繋がっていく。結論から言うと、アメリカ的な株主主義ではない、形として多くの日本の会社に近い会社の在り方になるんじゃないかと。その理屈はポスト産業資本主義が求める「差異」を作り出す仕組みが、どうしても属人的なものになるからだと。その途中の理路は本を読むべし。

会社がどうなるか?という疑問よりも、自分がどう現代に求められる「差異」を生み出す過程に関わるか?の視点をもらったのが一番の成果。

本 うしろめたさの人類学

「うしろめたさの人類学」松村圭一郎さん著

 とても個人的なことだけど、いまこの世界が自分にはとても生きにくい。その生きにくさはたぶん、市場の商品取引の発想が社会の他の領域でも幅を利かせているせいじゃないかと思う。美味しい料理の感想にコスパって言葉を使うことの違和感。

その生きにくい世界を昔は、なにか革命みたいなことで変わったりしないのかなと思っていた。でもたぶん革命なんてあったら、たいがいもっと悲惨な状態になるんだろうことも大人になるにつれて分かって来た。そして社会が今あるように合わせて、生きにくいまま生きるもんだと、いつしか思うようになっていた。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

著者はエチオピアと日本を往復しながらフィールドワークをする中で感じた、うしろめたさをキーワードに、革命ではなくて少しずつ社会を世界を自分に合うものに変えていく方法を提案する。

その一番のポイントは、”社会”は固定した不変の独立した存在ではなくて、今いる人たちの振る舞いの結果として、ここに存在しているものだと自覚すること。たとえば二千円札は、みんながそれを使わないという行為によって本当に流通しなくなっている。そうやって社会は実は少しずつ変化しながら続いている。

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だから、いまある社会が自分に合わないのだったら、合わないところをちょっとだけ毎日揺さぶればいいんだと。その一つが”贈与”という手段を越境して使うこと。たとえばコンビニの店員さんに毎回きちんとお礼を言うこと。

全然やっていいのに、たんにそれが商取引の等価交換に含まれてなかったからやってなかっただけのことは、全然やっていい。道端のゴミが落ちてて気になれば拾えばいい。

そうやって越境する行為は周りの人の、越境したい気持ち(=うしろめたさ)に火をつけるかもしれない。その越境してもOKなんだって考えが広まると、たぶんそれがけっこう少ない割合でも、ガチガチに見えてた社会に隙間が生まれて全員が息をしやすくなるんじゃないだろうか。

本 人工知能と「最適解」と人間の選択

 「人工知能と『最適解』と人間の選択」NHKスペシャル取材班

 ”人工知能の発達はたぶん止められない”、という本文の中の言葉はその通りだと思う。できるのは(後追いで)法律で使用法の社会的制限を加えることだけだろうなと思う。間に合うかしらん。

”将棋ソフトの圧倒的な能力を見て以来、人間との練習に疑問を感じるようになったという棋士の話”は新鮮だった。がっちりと閉じた系であるゲームのような世界では、AIの手法に学ぶことが主流になっていく最初の一歩を見たきがする。

たとえば受験という仕組みもいまの形式が続くならば、AIに学ぶというか、AIがそれぞれのこども向けにカスタマイズした、正規でない、合格するための手法としての勉強法を、何万通りも開発して教え込んでいくんじゃないのかな。

そしてどこかの時点で記憶力に対する価値が暴落して、本当に人間にしかできないことだけが価値として残って、その能力を測る試験に移行するのは間違いないだろうけど、その採点は定義から言って、AIにはできないから手間がかかるんだろうな。

人工知能の「最適解」と人間の選択 (NHK出版新書 534)

人工知能の「最適解」と人間の選択 (NHK出版新書 534)

 

 ショックだったのは、アメリカの司法ですでにAIが知らないまに使われているということ。再犯率をAIで計算させて、その結果を参考にしているという。現在のAIは当然過去の判例をもとに学んでいるわけで、そこにアメリカなら白人至上主義の偏見が混じっていてその通りの結果が再生産されて、模範囚でも黒人の場合は早く仮免にはならないという状態になっているという。

このことが示唆するのは、現状主流の「過去に学ぶAI」の場合は、その社会が持つ偏見を必ず引き継いでしまうこと。そしてAIが社会を構成する仕組みの一部になればなるほど、その偏見が再生産されることに成りかねないこと。

その流れの上で、AIがつねに「最適解」を出す、というのは実は地獄なのかもしれないと思えてきた。常に同じインプットに対して同じ答えを出す世界って、狂気以外の何ものでもない気がする。そこまで想像したあとに人間のことを考えると、その一番の魅力はエラーやミスをすることじゃないかとすら思えてきた。

もし、というかかなり確実にAIが社会の中枢に組み込まれていったときに、僕たちが一番期待するのは、コンピュータ・ウイルスの存在かもしれない。

本 リスクと生きる、死者と生きる

「リスクと生きる、死者と生きる」石戸諭さん著

東日本大震災に関わらざるを得なかった人たちへのインタビューと著者の思いを綴った本。

津波で逃げ遅れた人の家族の言葉、原発で避難を余儀なくされた人、その後の復興をになった人たちの話は、どれもずっしりきた。例えば避難をしてもしなくても全てが後悔につながってしまう。自分だけがとか、あの人を残してとか。

リスクの評価というのは本当にどうしていいか分からない。一つ言えるのは、昔の人が遺した人間の行動パターンへの警告はたいてい当たると。例えばなぜ昔の人がわざわざ「津波てんでんこ」という言葉を残したか。見捨てられないという思いがさらに被害を生んでしまう、自分だけがという思いが自分も殺してしまう。そういうのを全部見越して、小さな言葉にまとめたものだから。

リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる

 

 個人的な話だが同僚が「福島の(生産物)ってやっぱ怖いよね」と言った言葉がいやだったんだが上手く返すことができなかった。何かを安全と危険の二分法で分けたら楽だし、自分だって同じことをどっかでやってるから何も言えないんだけど。

海外から見たら、いまだに日本全体が福島の事故で放射の汚染されているって考えている人が普通なんじゃないだろうか。「日本の(生産物)ってやっぱ怖いよね」って。

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この本のタイトルにあるように、リスクと生きる、という覚悟を決めないといけないのかもしれない。めんどくさいけど、自分が分かる範囲で科学的な知識を使って、安全の程度や危険の程度を考えて、つねに微妙な不安と付き合って生きて行く覚悟。不安を増加させること自体が”コスト”だと考えて、人生の時間を取られることを一つずつ減らしていきつつ。

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死者と生きるというのはもっと普通のこととして考えてもいいんじゃないかと思う。もともとそういう国だし。ってか、その方が幸せな気がする。自分一人のために生きるのってつまらないし、行動の範囲もアイデアの出方も狭まるし。

幸せに楽しそうに生きている人たちは、死者と生きている人も多いのかもしれない。

本 差分

「差分」佐藤雅彦さん他著

例えば、この3つの点の図だけを見てもなんだろう?くらいにしか思わないけど、

・ ・

 ・

 この下の図をみた後だと、上の図は表情のない顔にしか見えなくなる

・ ・

 ∀

 そして、この上の図から下の図をみたときに、「(唇がニコッと曲がって)笑った」という感覚が生まれる。それを「差分」と佐藤さんは呼んでいる。一つの図では何も生まれないのに、二つ以上の図があると生まれる感覚、というのにたくさん出会えて面白い。

差分

差分

 

途中に茂木健一郎さんとの対談があり、そこでこの「差分感覚」は、脳が一つ目の図を見たときに、その図に対応した脳細胞が発火し、次に似た図を見た時に、同じ部分は発火せず、「変化したところだけが発火する」=「差分」になっているのではないか、という話だった。

余談だけど、この実験のなかで人間の重要な性質が出てくる。

「最初の状態A」→  途中の状態B(描かれてない)→ 「終わりの状態C」

というようにAとCしか情報がない場合、人間はBを都合よく解釈する。例えばBが不可能であっても、その事実を人間はスルーしてしまう。

つまり誰かが自分にとって都合の悪いBの証拠を握りつぶして、シラを切り通せば、多くの人はBのことを問題ないと認識してしまう。

 * 閑話休題 *

 

脳の省力化の仕組みに遊びを見出した佐藤さん。さらには無意識下で感じる差分を追求して行きたいという。

今思いついたのだけど、村上春樹さんの作品は英語に翻訳されてもその文体が失われないという。それは村上さんの「差分」の表現が文章のレベルにはなく、無意識下のところで見出されるようになってるんじゃないかと。まぁ無意識下だからなんでも言っちゃえってとこではあるけど。

あと、不良がちょっといいことすると、過剰に評価されるというのは、その「差分」を見出した自分の脳の快感が、相手の評価に上乗せされてるんじゃないだろうか。

たぶん日常生活を送る上で、ほとんどの人が「差分」にしか意識が働いておらず、何かそのものに意識を向けるということに、逆に難しさを感じているかもしれない。「差分」に意識を向けさせない練習が瞑想じゃないんだろうか。