「うしろめたさの人類学」松村圭一郎さん著
とても個人的なことだけど、いまこの世界が自分にはとても生きにくい。その生きにくさはたぶん、市場の商品取引の発想が社会の他の領域でも幅を利かせているせいじゃないかと思う。美味しい料理の感想にコスパって言葉を使うことの違和感。
その生きにくい世界を昔は、なにか革命みたいなことで変わったりしないのかなと思っていた。でもたぶん革命なんてあったら、たいがいもっと悲惨な状態になるんだろうことも大人になるにつれて分かって来た。そして社会が今あるように合わせて、生きにくいまま生きるもんだと、いつしか思うようになっていた。
著者はエチオピアと日本を往復しながらフィールドワークをする中で感じた、うしろめたさをキーワードに、革命ではなくて少しずつ社会を世界を自分に合うものに変えていく方法を提案する。
その一番のポイントは、”社会”は固定した不変の独立した存在ではなくて、今いる人たちの振る舞いの結果として、ここに存在しているものだと自覚すること。たとえば二千円札は、みんながそれを使わないという行為によって本当に流通しなくなっている。そうやって社会は実は少しずつ変化しながら続いている。
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だから、いまある社会が自分に合わないのだったら、合わないところをちょっとだけ毎日揺さぶればいいんだと。その一つが”贈与”という手段を越境して使うこと。たとえばコンビニの店員さんに毎回きちんとお礼を言うこと。
全然やっていいのに、たんにそれが商取引の等価交換に含まれてなかったからやってなかっただけのことは、全然やっていい。道端のゴミが落ちてて気になれば拾えばいい。
そうやって越境する行為は周りの人の、越境したい気持ち(=うしろめたさ)に火をつけるかもしれない。その越境してもOKなんだって考えが広まると、たぶんそれがけっこう少ない割合でも、ガチガチに見えてた社会に隙間が生まれて全員が息をしやすくなるんじゃないだろうか。