ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 差分

「差分」佐藤雅彦さん他著

例えば、この3つの点の図だけを見てもなんだろう?くらいにしか思わないけど、

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 この下の図をみた後だと、上の図は表情のない顔にしか見えなくなる

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 ∀

 そして、この上の図から下の図をみたときに、「(唇がニコッと曲がって)笑った」という感覚が生まれる。それを「差分」と佐藤さんは呼んでいる。一つの図では何も生まれないのに、二つ以上の図があると生まれる感覚、というのにたくさん出会えて面白い。

差分

差分

 

途中に茂木健一郎さんとの対談があり、そこでこの「差分感覚」は、脳が一つ目の図を見たときに、その図に対応した脳細胞が発火し、次に似た図を見た時に、同じ部分は発火せず、「変化したところだけが発火する」=「差分」になっているのではないか、という話だった。

余談だけど、この実験のなかで人間の重要な性質が出てくる。

「最初の状態A」→  途中の状態B(描かれてない)→ 「終わりの状態C」

というようにAとCしか情報がない場合、人間はBを都合よく解釈する。例えばBが不可能であっても、その事実を人間はスルーしてしまう。

つまり誰かが自分にとって都合の悪いBの証拠を握りつぶして、シラを切り通せば、多くの人はBのことを問題ないと認識してしまう。

 * 閑話休題 *

 

脳の省力化の仕組みに遊びを見出した佐藤さん。さらには無意識下で感じる差分を追求して行きたいという。

今思いついたのだけど、村上春樹さんの作品は英語に翻訳されてもその文体が失われないという。それは村上さんの「差分」の表現が文章のレベルにはなく、無意識下のところで見出されるようになってるんじゃないかと。まぁ無意識下だからなんでも言っちゃえってとこではあるけど。

あと、不良がちょっといいことすると、過剰に評価されるというのは、その「差分」を見出した自分の脳の快感が、相手の評価に上乗せされてるんじゃないだろうか。

たぶん日常生活を送る上で、ほとんどの人が「差分」にしか意識が働いておらず、何かそのものに意識を向けるということに、逆に難しさを感じているかもしれない。「差分」に意識を向けさせない練習が瞑想じゃないんだろうか。