ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 小さな塵の大きな不思議

本「小さな塵の大きな不思議」ハナホームズさん著。塵を時間的、空間的、科学的な角度から捉えた珍しい本。

大きくは太陽や地球、人間を含むすべては塵からできているという、塵による循環の話がある。そして小さくは、普段の生活で僕たちが塵にどう関わっているか?というのが面白くて怖い。

人間の鼻は自然界にあるもので有害な小さい塵を鼻で止めて、肺に回さないように出来ている。でも人工的に作られたもの・環境が出す塵は、自然界にあるものより小さく鼻を素通りして、肺にたまってしまう。

それが例えばPM2.5と呼ばれる粒子のサイズで(より小さいものを含め)肺に貯まってしまい、最悪、呼吸困難につながり息が吸えなくなり死ぬというもっとも苦しい死に方につながる。

小さな塵の大きな不思議

小さな塵の大きな不思議

 

 家の中で使う化学物質(消毒系、殺虫系、洗剤、芳香剤、接着剤、ろうそくの煤、煙草、etc)は空気中を漂い、肺に溜められていく。当然アレルギーや喘息に関係してくる。塵はもっと健康的な意味で考慮すべき項目だと思う。

職業的に木材加工や金属加工、ガラス加工、パン職人、牧畜など、小さい粉(と塵)が出る職場にいる人は、それぞれの職業名のついた肺の病気や喘息になりやすいという。

 

塵に正面から向き合って、避けて暮らそうとすると、他の多くを犠牲にしなければならない。なんにもしなくても毎日、数十万個の塵を吸ってるわけだけど、少しでもましにしようと空気清浄機を新調した。化学系の物質は極力使わないようにしよう。

 ちなみに63ミクロンより小さいものを塵と呼び、それより大きいものは砂粒言うらしい。なぜそのサイズが境なのかは知らない。しばらく自分で考えてみたい。飛ばし読みをしたので本の中にあったかもしれないが。

本 浄心への道順

浄心への道順」スマナサーラ僧侶と名越康文さん対談。

 いつもと違って妙に神妙な名越さんと、お坊さんにしては怒りが多いんじゃないかって感じるスマナサーラ僧侶のお話。 

 鉛筆や箸も練習して使えるようになるのと同じく、瞑想は脳の使い方の訓練であると。なにを訓練するかといえば、モノゴトがそのままあるように見るのを邪魔する「ワタシ」を消していく。

瞑想の訓練により偏った見方を消していくことで、頭が良くなったり問題を解決するのも上手になったりすると。それが主旨ではないにせよ。

スマナサーラ僧侶によると、脳の機能モジュールには視覚とか味覚とかあるけれど、「ワタシ」という全体をまとめる役割を果たしてるものはない。それはそういう機能モジュール群があるところに二次的に創発して出来たものではないかと。

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本から離れて:お釈迦さんの生きていた時代は紀元前300年前あたりと言われていて、漢字の歴史の中に「心」が出来てたのが紀元前500年前ぐらいと言われている。そこから推測して考えると「心」が出来て以来、人間ってその対処法に悩んできたんだなと。

その割に瞑想法が広まってないのはなんでだろう。秘伝だったんかな?それか皆知ってる当然のことだったのに、どこかで断絶した?例えば、歩き方も明治を境に日本では全く変わってしまった可能性があるけれど、あまりに日常的なことなので意識されていないのと同じく。

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瞑想はただの心のリセットの強力版と思ってたけど、そうではなくて脳が強化されるとすると、ちょっとこれはやってみたいと思う。

本 宇宙からみた生命史

「宇宙からみた生命史」小林憲正さん著。

この本を読んで生命史観が確かに変わった。生命そのものは分からないままだけど、それが全体として案外しぶとくて、けっこう宇宙にありそうで、でも一つの種を見るとたやすく滅んでしまう、そういう触感が伝わってきた。

宇宙からみた生命史 (ちくま新書)

宇宙からみた生命史 (ちくま新書)

 

宇宙にはアミノ酸前駆体とガラクタ生命(筆者命名)があって、それが色々な星に降り注いで生命のきっかけを与え得る話からすると、姿は違っても、ミクロ部分では似たエネルギー交換システムの生命体がありそうな気がしてきた。重力や大気構成割合が違うことで、生命の最適サイズは変わってきそう。

他にもメタン液体中の生命の可能性などを考えると、生命の起こりそうな可能性は従来より広まる。でも他の知的生命と交信できる可能性はやっぱり低いらしい。

 

そして人類という種なんだけど、自然現象によって千年単位で滅んでしまう可能性を知った。 太陽フレアの問題。

強い電磁波が地球にも届いて、今までにも町レベルで被害を受けている。自然現象なので、地震と同じくフレアの強度と起こる頻度が反比例する。今まではたまたま百年単位で起こりうるフレアしか起こってないけど、千年単位で起こるスーパーフレアが発生すると、電子機器が全てダメになる可能性がある。

なんだろう、いまの社会のシステムってここ100年起こってないことは想定しない前提で組まれてるんだな。なんだかとっても残念。

 

(自分の想像力の限界だけど)生命ってやっぱりどの星でもイマココ的な存在になっていくんだろうか。あまり先のことを考えられなくて、科学技術が発達してもそれが使えない状況(by自然現象)になって滅んだりしちゃってるんじゃないだろうか。

 

映画 この世界の片隅に

映画「この世界の片隅に

ジブリの「コクリコ坂」の雰囲気に「かぐや姫」のタッチをミックスした感じと言えば良いのか。でも印象は全然違って、主人公の「北条すず」の柔らかさと、世界から5秒くらい遅れたようなリズムが、物語全体のトーンになっている。その声を「のん」さんが演じて唯一無二のキャラクターになった。

konosekai.jp

舞台は第二次世界大戦前の広島とその隣の呉。広島から呉に嫁いだすずが、新しい家で夫や家族と生活をしていく。そのどこにでもあったであろう毎日のなかに少しずつ戦争が入ってきて、過ぎていく。

 すずも家族も全然無傷ではいられなく。それでも生き残った人たちは生きて行く。途中つらい場面もあるが押し付けてはこない感覚がいい。

昔もいまも、世界の片隅で静かにすずのように生きている人たちがきっといるんだろうな。すずのように生きて、すずのような人と出会いたい。

 

この世界の片隅に [DVD]
 

 

本 世界史としての日本史

「世界史としての日本史」半藤一利さん、出口治明さんの歴史対談。

これは面白くて分かりやすい。分かりやすくて笑いがこみあげてくる。「日本史」という習い方では見えなかったものが「世界史の中の東アジア部門の端っこの島の動き」という視点で見ることで、本当に見えて来る。

例えば白村江の戦い(663年)というのがある。唐・新羅連合軍と、百済倭国連合軍が戦った。そこで傭兵国家として成り立っていた倭国は負けて、初めて大きな挫折に出会う。それで自分たちはいったい何者なのか?と若い悩みにぶつかることで、日本書紀などをまとめて、自分たちはこーゆー由緒正しい国なんだ!という自尊感を高めたと。

その後は唐は自分たちのことで忙しくなり、取り立てて特産品のなかった日本列島はほっとかれて(搾取・侵略されなかったため)、国風文化が発達することができた。

元寇に関しても、モンゴルの主力部隊が来たわけでなく、モンゴルが征服した南宋の軍隊の、失業対策に公共事業として派遣したもので、侵略できたら儲けもんぐらいのスタンスだった(からすぐ退却した)。

世界史としての日本史 (小学館新書)
 

 江戸後期、明治、大正、昭和になると、ヨーロッパまで含めた全世界的な動きの反応としての、日本の政治的な動きの話が語られ大変分かりやすい。

太平洋戦争も、第二次世界大戦の太平洋部門と捉えると全然別の見え方になる。真珠湾攻撃もそれが日米のことだけでなく、結果的に(アメリカが連合国側に参戦するきっかけになり)ドイツの敗北につながるという視点を与えられて、その意味がマイナスだけでなくプラスにも重層的に取れるのだなと(だから良いものだったというわけでもない)。

この全世界的な視点で見る癖がつくと、歴史の教科書に書かれている記述は常に誰かの利益のために、全体から一部を切り取って編纂されてるのだなとよく分かる。というか、そうやってしか歴史って書けないんだなと。

本 創造的脱力

「創造的脱力」若新雄純さん著。

NEET株式会社や、鯖江市役所 JK課の発案者と知って、これは読まなくては!と。

著者の問題意識は、現在のよく出来上がった(そして硬くなった)組織に、少しだけ「ゆるいコミュニケーション」も入れることで、私たちが求めてる ” より心地の良い、楽しい状況 ” を少しでも作り出せるのではないか?という所にある。

例えば、市役所にJK課を作った際に、何をする所か分からない名前にあえてして、そこに集まった女子高校生たちに、何も課題を設定せずにおしゃべりをしてもらう。そのおしゃべりの中で自然に出てきた話の中から、自分たちが主体で不満やアイデアを、市役所や企業の力も借りて解決していくというやり方を提案して実行。

NEET株式会社は、集まった全員約160人が取締役になり、全員で議論して会社を運営しようとする。なにが無駄でなにが合理的かの常識をいったん忘れて、組織とその運営を0から自分たちで、作りつつ会社として回すという。

 

若新さんがすごいのは発想や実現力もそうなんだけど、自らが責任を持って最後まで付き合っていく姿勢だと思う。特にNEET株式会社のほうは、何時間も結論や結果のでない議論にご自身のどれけの日数や時間を費やしているのか。一緒に自由にゆるく話すことの可能性を信じているからこそ出来るんだろうけど、実際に出来る人は少ないだろう。でもその最後まで責任を持つ姿勢がこのアイデアを実現させる肝なんだろう。

個人的に会社で唯一「ゆるいコミュニケーション」が活発になるのが、年度末のパーティー企画。クライアントを招待するのでオフィシャルでもあるけど何をやってもいいし、誰が担当してもいい。思いついたことや、おしゃべりや、同僚やアルバイトの人たちの趣味の中から企画が出来上がっていく。パーティーの名前ですら固定ではないのが特徴で、パーティー自体が無くなってもたぶん誰も目に見えては困らないし、実際ない年もあった。

そのゆるい会話の中から生まれたパーティーのお土産品がある。原価はポケットマネー程度で、手間さえかければできる世の中に唯一無二のもの。それはおそらくクライアントが何年も何十年も大切にしてくれて、その間ずっと静かに会社の広告としても働いてくれる。それが生まれるまでは誰も考えもしなくて、今ではクライアントも同僚もアルバイトの人も毎年みんな楽しみにしてくれている。

そのパーティーが許される間は、会社もきっと大丈夫だろうと思っている

 

最後に若新さんの言葉を紹介して終わり。

「ゆるい」関わり合いの本質は、放置や放任ではありません。一緒に考えて、悩んで、楽しんで、一緒に「新しい何か」をつくっていくという共創のプロセスです。

 

NEET株式会社というのは…(中略)…社会問題へのソリューションではありません。人の意欲や、会社や組織そのものの意味を問い直してみるのが目的であって、存在そものが「問題」なんです。クエスチョンなんです。

映画 溺れるナイフ

映画「溺れるナイフ」を観た。久しぶりに”映画”を観た。

小松奈菜さん演じる、東京でモデルをやってた夏芽が転校してきて、菅田将暉さん演じるコウは窓際に座って外を眺めているようなクラスメイト。

出会ってすぐ惹かれあう二人。夏芽がコウを追いかけ、コウは走って逃げる。二人とも自分たちがそれぞれどう生きていけばいいのか、二人の関係をどうすればいいのか分からず、二人の距離(感)の満ち引きに観客も一緒に翻弄される。

gaga.ne.jp

話の筋は王道パターンなのに、小松さんの清潔な色気と菅田さんのアゴと目の鋭さが、それぞれの人に一回しかない人生であることを感じさせせる。

そして外部の人間がやってきて何かが起こったとき、どういう物語がそのあと紡がれるか、なぜか僕たちは知っている気がする。

終わったあとに、爽やかになって休日を満足して過ごした感があった。やっぱ映画はこうでなくっちゃ。

 

溺れるナイフ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

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