いつもと違って妙に神妙な名越さんと、お坊さんにしては怒りが多いんじゃないかって感じるスマナサーラ僧侶のお話。
鉛筆や箸も練習して使えるようになるのと同じく、瞑想は脳の使い方の訓練であると。なにを訓練するかといえば、モノゴトがそのままあるように見るのを邪魔する「ワタシ」を消していく。
瞑想の訓練により偏った見方を消していくことで、頭が良くなったり問題を解決するのも上手になったりすると。それが主旨ではないにせよ。
浄心への道順―瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話―
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,名越康文
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2016/07/26
- メディア: 単行本
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スマナサーラ僧侶によると、脳の機能モジュールには視覚とか味覚とかあるけれど、「ワタシ」という全体をまとめる役割を果たしてるものはない。それはそういう機能モジュール群があるところに二次的に創発して出来たものではないかと。
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本から離れて:お釈迦さんの生きていた時代は紀元前300年前あたりと言われていて、漢字の歴史の中に「心」が出来てたのが紀元前500年前ぐらいと言われている。そこから推測して考えると「心」が出来て以来、人間ってその対処法に悩んできたんだなと。
その割に瞑想法が広まってないのはなんでだろう。秘伝だったんかな?それか皆知ってる当然のことだったのに、どこかで断絶した?例えば、歩き方も明治を境に日本では全く変わってしまった可能性があるけれど、あまりに日常的なことなので意識されていないのと同じく。
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瞑想はただの心のリセットの強力版と思ってたけど、そうではなくて脳が強化されるとすると、ちょっとこれはやってみたいと思う。