ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?

人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?」山本一成さん著。

将棋AI「ポナンザ」の作者である著者の視点による、人工知能の現状を一冊にまとめたもの。読んで思ったことを書く。

現状のAIには「論理が全然ない」というのは本当のこと。ポナンザは一兆局面分の将棋を学習して最強だけど、「この局面だったらこの手が一番確率高いよね?」ってことをディープラーニング他で学習して、勘(確率)で予測をいうことはできるけど、それが「なぜか」は知らない。「論理」を使ってないから。やたらめったら勘がよくて「結果上手くいってるからOK」なのが今あるAIの一般的傾向。

おそらく「論理」と「ディープラーニング(深層学習)」を組み合わそうという研究は鬼のようにあるんだけど、どんな「論理」をどれだけ組み合わせるか?の部分に、その研究者の限界が反映されてしまって(誰がやっても)、「ディープラーニング」単体で使ったAIのほうが成果が出てしまうのが現状なんじゃないのかな?

それは例えば、人が一生生きていく上で出会うときの判断(=論理)をすべて最初に教え込もうとしたときに必要なルールの量と、その優先順位が想像がつかないのと同じ。

 また、実際にAIを触ってないと伝わりにくいけど大事なのは、現在の人工知能が機能する上では「探索」と「評価」のセットが必要であり、「探索」部分は人間のプログラマが担っていて、AIが自分だけで行うのは評価の部分だけであるという話。

これは1歳児にご飯をたべさせることが比喩として近い。食材をたべやすい均等なサイズに切って、熱くもなく冷たくもなくして、口元ぴったりにスプーンで運ぶ(全部が探索)と、やっと子供(=AI)はその食べ物(=DATA)を食べる(評価)してくれる。

リアルな話でいうと解答用紙を自動採点させる場合、解答用紙のどこに何番に対応する答えが書いてあるかを人間が指定して、その箇所をクローズアップして、読みやすい大きさの画像に切り取り、いつもと同じ濃度に加工して、回転やズレを修正して(この全部がプログラムという探索)、やっとAIはそれを処理(評価)してくれる。

逆にいうと、その「前処理」=「探索」のところまでAIが自分で出来るようになった瞬間に、AIは人類が全く手のとどかない何かの高みに登ってしまうだろうと思う。それは数年単位のように徐々に変わるのではなくて、ほとんど、ある日突然みたいな。

そうなったときのために、人間を守ろうとするロボット三原則のような「論理」をAIに組み込もうとするのはきっと筋目が違うだろうと思う。普通に「論理」が使えることがロボットにとって役立つから共生みたいな。

 

本 「他人」の壁

『「他人」の壁』養老孟司さん、名越康文さん対談。

この手の本はさらっと読めばさらっと流れるし、ノートに書き写して読むと壁にたくさんぶちあたる。

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結論からいうと、「他人が分かる」なんてことを期待すると余計に物事はうまくいかなくなるよと。

おそらく人間の内面の大部分は無意識で、意識は氷山が海の上に出てる部分くらいしかない。その無意識の部分は自分でも分からないし、他人のはもっと分からないから、お互いの「違いのサイズ」すら分からない。それでも意識は「同じ」を見つけたがるので、わずかに見える意識の中から同じ部分を探して、「他人をわかる」という。

で、失敗する。

そしてこの ”意識 ” にとって「意味のある」ものだけを集めたのが、都市であり、最たるものがオフィスになり、会議室になる。そこには意味のないものは置かない。置けない。石ころが会社の中にあるとものすごく異物に見えるのはそのルールで見てるから。

ここからは感想なんだが、現代の先進国では多くの人が都市で、会社で長い時間を過ごして、意味のあるものだけに囲まれて、ちっぽけな意識だけを使って長い時間を過ごしている。

意識ばっかり使っているから「わかる」の範囲が小さくなり、きっと「分からないこと」が増えてるんじゃないだろうか?

二人が山へ行け、森行けと言っているのは、その場所で全身で「わかる」時間を過ごせば、「他人の壁」はそのままに、他人とうまく付き合っていくことができるだろうよと。

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 この本を読むときでも、さらっと読むとおそらく意識だけが働いて、 ” 今の自分にわかる所 =自分と同じ所 ” だけに反応して、だから早く読めてしまうんだと思う。書き写すと、「手」が、筆者と自分の思考のリズムやニュアンスの差を「写し間違い」という形で教えてくれる。つまり、” 今の自分と違う所 ” に反応できるようになる。

そしてこの「写し間違い」は言葉では解消されず、経験のうちに少しずつ埋まっていくものだと思う。

本 生存教室

「生存教室」内田樹さん、光岡秀稔さん対談。「荒天の武学」に続く第二弾。漫画「暗殺教室」を読んでということからこの題名になっている。

弱者が日常生活のなかで生き残る術を高めたい内田さんと、殺るか殺られるかの関係のなかでしか手に入らない強者の世界を極めたい光岡さん。二人がそれぞれの立場から武術と学ぶことと生きることを語っていく。

生存教室 ディストピアを生き抜くために (集英社新書)

生存教室 ディストピアを生き抜くために (集英社新書)

 

タイトルに対する大きな返事として、古の身体(観)を取り戻すということが軸にあった。評価軸を他人にゆだねず、自分で自分に納得して自信を持って生きていくために、どうやってでも生きていけると自然に思える体を作ろうと。そのための手法として伝統的な武術の練習法や教え方のなかにたくさんヒントがあると。

個人的には、地べた座り生活と、しゃがむこと、中腰での仕事というのが気になった。昔の日本の絵には、足をまっすぐに伸ばして立っている姿がほとんどないと、言われてみればその通りで、それが合理的だったんだなと。

また、特に光岡さんの話す”身体”が今の自分には遠すぎて、二度読んでやっとその言葉がひとつづつ意識に上がったくらい。それだけ未知の面白そうな世界が広がっているとも。

この本に出てくる身体とまではいかなくても、体をリアルに感じている人と親しくなっている気がする。

手書き数字認識の機械学習を通じて学んだこと

仕事で自動採点用に、手書き数字の機械学習(AI)の構築にトライしている。その過程で人間の”認識プロセス”に対する理解が深まった。

 

一桁の数をAIに認識させようと、実際に人間が書いた手書きの数字を読み込ませると、90%の精度でしか認識することが出来なかった。実験レベルなら99%認識できるので問題はAIの構造ではなく。

実は AI が仕事をするのに一番大変で大切なのは、 AI が理解しやすい形にデータを(人間が)加工してあげることだった。教本にはそう書いてあって読んだときは本当かいな?AIの仕組みを作るほうが大変ちゃうの?と思ってたけど、いやいやデータの加工に95%くらい時間を取られる。

 

作るAIのレベルにもよるのだけど、AIは基本的に訓練のときに使われた「データ群の癖」に囚われてしまう。

簡単な例でいうと、解答欄に大きく描かれた[7]という形を、数字の ” 7 ” として学習したAIは、同じ解答欄に小さく書かれた判別したい[7]を全く別物として捉えてしまう。

そのズレ感をイメージ化する。

  数字のパートを"1"、背景を"0"で表現すると以下のような形で画像になっている。

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AIが認識してる形にそれぞれ直すと、

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となり、上の画像の形なら似てるじゃん!と思うけど、一行の形だとたしかに同じものとは言うのは無理があるかなーと。まぁ本来ならそれでも似てるパターンを探し出して、認識するのがAIの役目だとは思うんだけど。

 

文句を言ってもしょうがないのでBの判別したい[7]を加工(余白削除)する

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こうすると、判別したいB’の余白削除後の[7]の数字並びの比率が、Aの学習した「7」と似てくるせいか(上と下で約2:1のサイズ比)、

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AIはやっと加工後の[7]を" 7"として認識するようになる(本当になにで認識してるのかは分からない)。

このように、「余白の割合を同一の比率にしたり、数字の斜め書きを縦に戻したり、筆圧の低い人の字を適度な濃さにしたり、、、という想定されるあらゆるデータのズレを補正する作業」を(現段階では)人間がしている。そうやってAIが食べやすい形にデータを直して与えることで初めて、AIは仕事をすることができる。

 

・・・このことから思いつくのは、人間が紙に書かれた[7]を認識しているときも、たんに概念としての"7"を認識しているだけじゃなくて、

紙に書かれた[7]の、「サイズの調整、色の濃さの調整、回転の調整、移動の調整、枠線と数字の区別、、、などなどが全て自動で脳のなかで加工」されて、最後に『算数や数学の概念認識のプロセス』が動いて、ついに数字の ” 7 ” として認識されているんだと。

逆にいうと、なんらかの事情で脳のなかの画像加工機能のほんの一部が動かなくなるだけで、数字の概念は使えるのに紙に書かれた[7]の認識すら、出来なくなるんだろうなぁと。これはディスレクシアの原因になるのかもしれない。

というわけで、AIを構築する作業というのは『概念認識』のような高度な部分はわずかで、その前のデータを食べやすい形にする単調作業がほとんどの仕事だった。

で、リアルな問題としてその単調作業を繰り返して、認識率を最低99%にあげないと仕事にならん・・・。

 

(追記)

8/16 …94%あと二歩。

8/19 …99%!完成!

↓ こんな感じで数字認識結果が出る。

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結局、AIを訓練するためのデータに色んな種類のノイズを加える方法を新たに追加したことが、残り9%を上げるポイントだった。

つまり数字が斜めになってたり、枠からはみ出てたり、読みにくかったりする数字でAIを訓練させたら、実践対応能力が上がったと。これって人間でも使える訓練方法だったりしないのかな。。。

本 ゆらぐ脳

「ゆらぐ脳」池谷裕二さん著。

池谷さんは、モノゴトが「わかる」を、これまでの「” 分けて ” わかる」に加えて、「(分けずに)そのままわかる」という方法論を作り出そうとしている。脳の研究者としてもすごい実績を上げているのに、新種の「わかる」を作り出すって野望大き過ぎ!(笑)

これって、「自転車の乗り方」みたいな、体で「わかる」とかに近いことなんじゃないのかな。動的平行で有名な福岡伸一さんも「世界は分けてもわからない (講談社現代新書)」って言ってるし、「まるごと受け止める」ことは、新たな方向性として何か感じるものがある。

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

 

本の全体の内容は珍しく、研究生活にまつわるリアリティで、研究に進みたい人にとっては参考になるかもしれない。ただ、池谷さんのとっている研究方法はサイエンスの世界で、ものすごく異端だと思う。

仮説を立てずに、好奇心を一番大事にして、新たな何かが分かりそうなトライアルをひたすら続けていくというもの。どこに転がるかわからないし、ポイントもないし、方向性も、進捗状況も本人すらわからない。単年度で成果を毎年上げなければいけない制度の中では存在しずらい方法論。

 

でもこれって、すごく自然な感じがする。自分が ” いい状態 ” の時の心のありようって、たいてい仮説(予定)を忘れて、好奇心の赴くままに街歩きをしたりして、発見していく時だから。自分の枠組みから自由になってるから、新しいことにどんどん出会える。

池谷さんには個人的に人類栄誉賞をあげたい。

本 騎士団長殺し

本「騎士団長殺し村上春樹さん著。

いままでの小説と同じ結末では、あらない。ある種、ノルウェイの森の違った未来がここにあるような気もする。それがいまの村上さんから生まれるものなのだろう。

いったい、まりえはなぜ消えてなくてはいけなかったのか。それが主人公とどう関わっているのかいまだわからない。そこに論理を求めてるわけでもなく、村上さんがどこからか取り出してきた世界のあり方に疑問を挟むわけでもなく、ただ、その世界ともう少しやりとりして、「そういうことも、ある」と自然に言えるように、その世界にもっと浸りたいというのが本当のところ。 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 主人公の言葉に、絵は、描き手が終わりを決めるんじゃなくて、絵が終わりを決めるという話が出てくる。おそらく、間違いなく、村上さんの長編は(村上さんではなく)文章自体が最後を決めているのだと思う。であれば、この新しい結末が意味するところは、文章の器となる村上さん自身がなんだか次のステップに移ったんだなと。ノルウェイの森の宿題に答えを出したような。実際の村上さんは知らないけど、小説を生み出すときに文の中かそばにいるムラカミさんがやっと何かに向き合えたような。

そして自分の問題として騎士団長殺しから逃げていることを思い出させられる。それを自分自身が終えない限り、ノルウェイの森から卒業できず、この本を本当にわかることもできない気がする。

本 マインドフルネス最前線

 本「マインドフルネス最前線」香山リカさん対談集。

読んでみて、マインドフルネスを始めたい、そして出来るなら継続したいと思った。実利的かつ面白かったのは、マインドフルネスや瞑想、ヴィッパサナーを継続すると、遺伝子の発現率が変化することが研究でわかったこと。脳のネットワーク組成すら変化してしまうこと。さらにはテロメアの修復酵素が出てくるようになったりと。ウハウハ。

 マインドフルネス自体は僕の理解では、自分の感情をある程度コントロールできる対象だと認識して、具体的に取り扱う技術体系の一つだと。おおまかにはこの本を読めばわかるが、実際にやるには誰かの元に行ってやるしかない。

この本の別の面白さとしては、香山リカさんが科学者であることによる限界を、よくも悪くも見せてくれること。「誰でも・いつでも・どこでも」再現できないことは科学になれない。

でも人生のほとんどは一回限りのことだし、医療でいうなら「治療」という行為にはそれが外傷であれ心の傷であれ、人間が関わる以上、”相性”や”タイミング”や”運”が存在するのは誰でもわかる。そういった個別性を無視したり、「科学が存在できる範囲」だけで出来ることをしようとすると、科学自身が、治療の範囲を狭めてしまう。

個人的には現代の科学がその範囲に含むことのできない、一回限りのことをいかに毎回上手に扱うかを自分の技術として磨いていきたい。科学はその定義上、誰でもできることだから。マインドフルネスはその間にある。