ココロミにきみ

本と体とプログラミング

村上春樹さんの小説は無意識や体に向けて作られてるんじゃないか?

村上春樹さんは小説を、実は人間の意識に向けてではなく、無意識や体に向けて作っているんじゃないか?ということが言いたい。

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村上春樹さんの小説は、2つのレベルで意味を含んでると勝手に思っている。

・一つは、ストーリーや物語として言葉で説明できる「通常レベルの意味

・もう一つは、無意識や体へ伝わる「言葉にならない意味」

二つ目の意味を「黙意味」とでも呼ぶ。この黙意味のアイデアは、読後に、例えば水泳のフォームを改善されたような、いつもと少し違う体の使い方の感覚が残ることに気づいてたから。

つまり小説を読むことが、意識での理解に作用するだけでなく、体で覚える手続き記憶みたいなところにも影響を受けていると感じたと。

村上さんの小説が翻訳されて世界中で好まれるというのは、他言語になってもこの黙意味が失わなれず伝わってるからなんじゃないだろうか。

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村上さんは自分の小説の書き方を、「通常の意識から下に2段階降りて、通常は隠された(自分の中にある)扉を開けて異世界に入り、そこから何かを得て戻ってきて言葉にする」とよく言っている。

その異世界はたとえば、人間に共通の記憶の古層みたいもなのであって、普段はそこにアクセスできないけれど、なんかのきっかけでそこにアクセスできるようになるのだと。

僕はよく分からないけど、その異世界にアクセスして戻ってくるには体力と技術が大切だとも村上さんは言っているから、大変な世界であることだけは分かる。閑話休題

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ここからが今日のアイデアの核で、村上さんにとって小説を書くという行為は、

「その異世界レベルでの何か(黙意味)を形作ること」

が一番の目的なんじゃないかと。

ただし、その異世界では記録する手段がないし伝える手段がないから、通常の言葉に置き換えて記録を重ねてゆく。

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つまり「異世界で何か形作られるモノ(黙意味)」が一次作品であり、「それが言葉に翻訳されたもの」が”小説”と呼ばれる意識向けの二次作品なんじゃないかと。

そして読者は翻訳された二次作品としての小説を読むことで、実は一次作品である黙意味を受け取ることを目的としてるんじゃないかと!