「終わりと始まり」池澤夏樹さん著
・・・村上春樹さんの小説を一言で表すなら「やれやれ」だと思っていた
それからずいぶんたって「やれやれ」が的外れでなかった理由を、池澤夏樹さんは教えてくれた
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「やれやれ」から見えてくるイメージは、「日常の中に、何かちょっとめんどくさいことが起こって、それにどう対応しようか?」というニュアンス
間違ってもこれから革命を起こそうだとか、そんな気概は微塵も感じられない
池澤さんによると、革命というのは「(社会が共有する)物語」を選び直すことであり、村上春樹さんの小説が全世界的に流行っているということは、全世界がもう「革命がない社会」つまり「物語をなくした社会」になってしまったからなんだと
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すごいなと思うのは、池澤さんは村上春樹さんの小説が出始めたころの社会を世界を、自分が間違って捉えていたと後から認識していること
その頃の池澤さんの考え方では、世界は常に物語(翻っては革命)を必要としているはずだから、それが内包されていない小説には魅力を感じなかった
だから、村上春樹さんの最初の2、3冊はまだ革命があったから読めたけど、それ以降読めなくなったんだと
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しかし時間が経って、世界は物語をもう必要としなくなっており、それと呼応するように出てきたのが村上春樹さんであり、それを象徴する言葉が「やれやれ」だったんだと池澤さんは気づく
村上春樹という作家の成功の理由は物語がなくなった先の物語を構築したことだ。
「やれやれ」の退屈な日々に外からゲーム的な異化のエージェントを放り込む。(本文より)
なるほど、「やれやれ」的な世界観は、読者である自分にもしっくり来てる・・・やれやれ
そして村上春樹さんの小説の構造ってたしかに、「やれやれ」の世界に何かが飛び込んできて物語が始まる感じがある
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分からないのは、「物語がなくなった先の物語を構築したこと」という言葉
2つ目の ” 物語 ” は、現実世界とリンクしない、革命を必要としない、新たな定義の ” 物語 ” なんだろうか?
たとえば、小説の中だけで、ゲームの中だけで、映画の中だけで完結する”物語”?
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池澤さんは、「物語」がなくなった年を1968年と言っている
それ以降に生まれた人間にとっては、メディアの中だけの”物語”しか、実感的に知らない
・・・個人的にいうなら自分もそう
しかし、人類がおそらく言葉を持ち始めたくらいからずっとなんらかの「物語」を持ってきただろうに、それがわずかここ数十年のうちの、1968年を境に捨てさられてしうまうものなんだろうか?
たまたまそんな珍しい時期の前後に私たちは生きているのだろうか?
・・・大きすぎるテーマなので閑話休題
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池澤さんの本を読んだのは初めてだったのだけど、すごく面白かった
その理由を突き詰めていうなら、彼は物語がなくなってしまった世界で、必死に物語を紡ごうとしているからかもしれない
フラットになっていく世界に意味を与え続けることを自分の仕事としてモノを書き続ける、おそらく最後の人々の一人
池澤さんを師匠の一人として決めたが、自分が”物語”に対してどういうスタンスをとるべきかは、まだ分からない