ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 数学する身体

森田真生さん著「数学する身体」

「数学」だけでなく「数」というモノも人工物で、人間の認知能力を補完・延長するものとして生まれた。最初から今ある形にあるのではなく、使われ、研究されることで現状はいまある状態として認識され、使われていると。

例えば2,628の書き方は7世紀のインドで位取りが発達するまでは、MMDCXXⅤⅢという形で書かれていた。これは1000+1000+500+100+10+10+8と書いてるのと同じことだと筆者は教えてくれる。

昔ってめんどくさかったんだなと思いきや、この名残は言葉にはまだ残っている気がする。英語で2,628の読みは、two thousands six handreds and twenty eightって、ほとんどローマ時代のままじゃん?なんで、two six two eight って言わないのかね。さらにいうと、エクセルの「セル」も発想がローマで、「答え」ではなく「式」ベースだよね。日常生活での数字は、答えそのものより、その数字が生まれるプロセスが見えるほうが使い易いんだろうか?

閑話休題

数学する身体

数学する身体

 

 そもそも脳の外にあった数字や数学が、頭の中でも使われるようになったとしても、人間は身体も使って「計算」や「考える」とかしてるはずと筆者はいう。その証拠として筆者は面白い例を出していたけれど(説明が長いので)、よく知られた例で言うなら、赤ちゃんはハイハイをしだすと認知能力が急激に上がるのが理由になるだろう。(認知能力と思考は一緒くたでいいっしょ)

つまり数学に限らず思考に身体が使われていることは、言われてみればその通りなのにそのことは都合よく忘れられている気がする。きっとそれも脳の機能なんだろう。この発想に関しては西洋と東洋では受け止め方が違うだろうと思う。あらゆるものを外部化して道具化していく西洋と、逆に物事を内面化、血肉化する日本という意味で。

 

本の後半は作者の、数学者の岡潔への憧憬が主体となる。岡潔の3つ目の数学上の大発見というのは、それまでの二つのインスピレーション主体の発見と違い、精神の成長による発見だと岡潔は言う。岡潔と同じ時代に生き、コンピューターの基礎を作ったチューリングは数学の完全外部化を目指し、岡潔は「数学に自分がなりきる」ことで数学する、という身体を直接数学することに参加させるという方法論を目指した。

岡潔を範とする日本人の作者が、数学に身体が必須のものだとしたのはとてもよく分かるし共感する。いつかこの著者のアイデアがもっと大きく広くなって、身体の発見を身体で行っているたくさんの人たちのアイデアを一般化して、「身体する身体」とかまで数学することを高められることを願いつつ。