ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 世界史としての日本史

「世界史としての日本史」半藤一利さん、出口治明さんの歴史対談。

これは面白くて分かりやすい。分かりやすくて笑いがこみあげてくる。「日本史」という習い方では見えなかったものが「世界史の中の東アジア部門の端っこの島の動き」という視点で見ることで、本当に見えて来る。

例えば白村江の戦い(663年)というのがある。唐・新羅連合軍と、百済倭国連合軍が戦った。そこで傭兵国家として成り立っていた倭国は負けて、初めて大きな挫折に出会う。それで自分たちはいったい何者なのか?と若い悩みにぶつかることで、日本書紀などをまとめて、自分たちはこーゆー由緒正しい国なんだ!という自尊感を高めたと。

その後は唐は自分たちのことで忙しくなり、取り立てて特産品のなかった日本列島はほっとかれて(搾取・侵略されなかったため)、国風文化が発達することができた。

元寇に関しても、モンゴルの主力部隊が来たわけでなく、モンゴルが征服した南宋の軍隊の、失業対策に公共事業として派遣したもので、侵略できたら儲けもんぐらいのスタンスだった(からすぐ退却した)。

世界史としての日本史 (小学館新書)
 

 江戸後期、明治、大正、昭和になると、ヨーロッパまで含めた全世界的な動きの反応としての、日本の政治的な動きの話が語られ大変分かりやすい。

太平洋戦争も、第二次世界大戦の太平洋部門と捉えると全然別の見え方になる。真珠湾攻撃もそれが日米のことだけでなく、結果的に(アメリカが連合国側に参戦するきっかけになり)ドイツの敗北につながるという視点を与えられて、その意味がマイナスだけでなくプラスにも重層的に取れるのだなと(だから良いものだったというわけでもない)。

この全世界的な視点で見る癖がつくと、歴史の教科書に書かれている記述は常に誰かの利益のために、全体から一部を切り取って編纂されてるのだなとよく分かる。というか、そうやってしか歴史って書けないんだなと。

本 創造的脱力

「創造的脱力」若新雄純さん著。

NEET株式会社や、鯖江市役所 JK課の発案者と知って、これは読まなくては!と。

著者の問題意識は、現在のよく出来上がった(そして硬くなった)組織に、少しだけ「ゆるいコミュニケーション」も入れることで、私たちが求めてる ” より心地の良い、楽しい状況 ” を少しでも作り出せるのではないか?という所にある。

例えば、市役所にJK課を作った際に、何をする所か分からない名前にあえてして、そこに集まった女子高校生たちに、何も課題を設定せずにおしゃべりをしてもらう。そのおしゃべりの中で自然に出てきた話の中から、自分たちが主体で不満やアイデアを、市役所や企業の力も借りて解決していくというやり方を提案して実行。

NEET株式会社は、集まった全員約160人が取締役になり、全員で議論して会社を運営しようとする。なにが無駄でなにが合理的かの常識をいったん忘れて、組織とその運営を0から自分たちで、作りつつ会社として回すという。

 

若新さんがすごいのは発想や実現力もそうなんだけど、自らが責任を持って最後まで付き合っていく姿勢だと思う。特にNEET株式会社のほうは、何時間も結論や結果のでない議論にご自身のどれけの日数や時間を費やしているのか。一緒に自由にゆるく話すことの可能性を信じているからこそ出来るんだろうけど、実際に出来る人は少ないだろう。でもその最後まで責任を持つ姿勢がこのアイデアを実現させる肝なんだろう。

個人的に会社で唯一「ゆるいコミュニケーション」が活発になるのが、年度末のパーティー企画。クライアントを招待するのでオフィシャルでもあるけど何をやってもいいし、誰が担当してもいい。思いついたことや、おしゃべりや、同僚やアルバイトの人たちの趣味の中から企画が出来上がっていく。パーティーの名前ですら固定ではないのが特徴で、パーティー自体が無くなってもたぶん誰も目に見えては困らないし、実際ない年もあった。

そのゆるい会話の中から生まれたパーティーのお土産品がある。原価はポケットマネー程度で、手間さえかければできる世の中に唯一無二のもの。それはおそらくクライアントが何年も何十年も大切にしてくれて、その間ずっと静かに会社の広告としても働いてくれる。それが生まれるまでは誰も考えもしなくて、今ではクライアントも同僚もアルバイトの人も毎年みんな楽しみにしてくれている。

そのパーティーが許される間は、会社もきっと大丈夫だろうと思っている

 

最後に若新さんの言葉を紹介して終わり。

「ゆるい」関わり合いの本質は、放置や放任ではありません。一緒に考えて、悩んで、楽しんで、一緒に「新しい何か」をつくっていくという共創のプロセスです。

 

NEET株式会社というのは…(中略)…社会問題へのソリューションではありません。人の意欲や、会社や組織そのものの意味を問い直してみるのが目的であって、存在そものが「問題」なんです。クエスチョンなんです。

映画 溺れるナイフ

映画「溺れるナイフ」を観た。久しぶりに”映画”を観た。

小松奈菜さん演じる、東京でモデルをやってた夏芽が転校してきて、菅田将暉さん演じるコウは窓際に座って外を眺めているようなクラスメイト。

出会ってすぐ惹かれあう二人。夏芽がコウを追いかけ、コウは走って逃げる。二人とも自分たちがそれぞれどう生きていけばいいのか、二人の関係をどうすればいいのか分からず、二人の距離(感)の満ち引きに観客も一緒に翻弄される。

gaga.ne.jp

話の筋は王道パターンなのに、小松さんの清潔な色気と菅田さんのアゴと目の鋭さが、それぞれの人に一回しかない人生であることを感じさせせる。

そして外部の人間がやってきて何かが起こったとき、どういう物語がそのあと紡がれるか、なぜか僕たちは知っている気がする。

終わったあとに、爽やかになって休日を満足して過ごした感があった。やっぱ映画はこうでなくっちゃ。

 

溺れるナイフ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

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本 生きていてもいいような気がしてくる119の名案

「生きていてもいいような気がしてくる119の名案」下田美咲さん著。

名案とそれを濃縮した名言がさらにいい。

・色気とは、髪の毛に宿るもの。

・人間関係は、スーパー生もの。常に時価。

・恋愛している人のアプローチなんて、もれなくキモイものだよ!

 とくに恋愛で、悪い予感がしてるのに、なんとなく自分にいいように解釈しがちなことに対して下田さんはバッサリ、幻想を切り捨てさせる。現実を見つめさせて、終わらせて次へ向かわせるのが下田さんの愛。残ったリアル(裸一貫の自分)だけで、やり直しましょうって。

さらに、みんなたいしたモノを持ってないんだから、付加価値付けるしかないっしょ?その努力(矯正とか治療とか)しないでどうすんの?仕事とかは自分から動いて探すのに、なんで恋愛だけ運任せなの?などなど。

偏りがその魅力。

本 ことばを鍛えるイギリスの学校

「ことばを鍛えるイギリスの学校」山本麻子さん著。

イギリスの国家戦略としての自国民の「英語を鍛えること・脳みその鍛え方」がよくわかる。こんな鍛えられ方をしてる国の人たちと特に政治で競って勝てるわけがない。

イギリスでは小学生前から、道具としての「ことば」を効果的に、徹底的に使える訓練をする。さらに道具としての「ことば」だから、一旦それが発せられた後は言葉は「公共物」になり、それに別の人が何か付け加えたり、改変することを当たり前とする。だから議論が成り立つし、”議論”によって新たな「知」が生まれ得る。

そのためにイギリスでは、「ことば」を授業以外の実践で使う機会を学校内外にいくつも、それも毎年毎年設け、親も地域の人も会社も、学校の先生に協力して社会全体で子供の「英語」を鍛えるという意識と実践がある。学校生態系に親も地域も組み込まれており、皆がその勤めを果たさないと教育が回らないものを、回している。

 

日本でも個人レベルでは良い先生がたくさんいて、同等以上のことをしてる場合もたくさんあるとは思う。でも、国全体での教育への当事者意識(批判者でなく)レベルが全く違うので、合計値としての「ことば」の鍛えられ方、つまりは脳の鍛えられ方は比較するのが悲しくなるくらい違うだろう。

 

結局、いまの日本で英語教育を小学校でちょっと何かやったところで、道具として「ことば」を使い倒し、脳を鍛えまくる訓練を何年も受けてきた人たちと戦っても、まったく勝てない現状が続くだけなのは分かった。

それよか日本語を道具として徹底的に使う訓練をさせて、脳を鍛えたほうが、まだしも戦えるようになると思う。そんな話は小さい声でしか語られてないだろうし、「え?自分がこどもの教育に実践者として責任持つなんて無理!」っていうのが普通だろうな。

どこか私塾単位で始めるくらいか。。。

本 やっぱりあきらめられない民主主義

「やっぱりあきらめられない民主主義」内田樹さん、平川克美さん、奈須りえさん対談。

民主主義は手段の一つでありそれ自体が目標ではない、というのが新鮮だった。それ自体がゴールのように考えて、それが何であるかについて自分が思考停止していたことがよく分かった。

やっぱりあきらめられない民主主義

やっぱりあきらめられない民主主義

 

お役所の非効率さや硬直さは個人的にも感じる所はあるけれど、そこに民間の会社と同じ方法論をそのまま持ち込んでうまくいくとは思えない。その理由は単純だけどゴールとするものが違うから。

もし「民間の手法」を公共の仕組みに持ち込むのであれば、その得意とする経済合理性自体を道具とする、一つ上の価値観の共有が必要なんだろう。でもそんなのはとりあえず今の日本にはないし。

 

もう一つこの本を読んでなるほどだったのが、「株式会社(国)のあり方とその是非を決めるのは従業員(国民ではなく)マーケット」という考え方が私たちの骨の髄まで染み込んでると。だから私たちは政治を、民主主義という「手間がかかることが価値の手法」を使わずに、「会社のようにトップダウンで決める手法」にしてしまう。

ここからが卓見だと思ったのが、政治家にとってはその是非を決めるマーケットが「選挙」だと思っており、選挙に選ばれる以上、自分たちは常に正しいと思っている。しかし実は私たちにとって政策・政治の是非を決めるマーケットは選挙ではなく「アメリカ」だと思っており、アメリカという上位審判があるから、私たちが地味に丁寧にがんばって民主主義を引き受けなくてもいいと思っている。

本 システム感情片付け術

小笠原和葉さん著「システム感情片付け術」

理系ボディーワーカーが教える

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  • 作者: 小笠原和葉,伊東昌美
  • 出版社/メーカー: 株式会社 日貿出版社
  • 発売日: 2016/05/17
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ボディーワーカーである著者の言葉がとても面白かった。

「治すべきところ」ではなく、「より多くの可能性を発揮したがっている場所」がぼんやり浮かび上がってきます。

とか

実は姿勢には「生きているって、こういう感じ」という、ベーッシクな感覚が刻まれているのです。

施術者としての著者は、「治す」じゃなくて、クライアントのカラダが持っている生きる力を根本から信じて、その力を解放していくお手伝いをちょっとだけしてる、という感じが伝わって来る。そのスタンスがすごく真っ当な気がして、だから好感が持てるんだなと思う。

この本が大事なのは、この施術者としての著者の存在を知ることだろうと思う。どうしても困ったらこの人に頼みたい、という信頼が作られる本。