molingitのブログ

本の感想と体の感覚

本 ローカリズム宣言

ローカリズム宣言」内田樹さん著

”別の視点”というのを意識させられた。

いまの時代に田舎に行って農業に向かう若者がいる。それを市場的な視点からみると、効率化がし辛く(儲かりにくく)賢い選択のようには見えないかもしれない。(それが分かってて)他の分野でも活躍できるかもしれない人が、あえて地方に移り住み、農業に向かう理由が想像つくだろうか?

改めて確認すると、農業は多くの周りの人と協力しないと仕事にならない ” 非効率な仕事”であることは変わらない。自然を相手にするから計画通りにいかないし、周りの農家との協力関係も作らないといけないし、仕事以外にも近所づきあいだとか無償の奉仕とか、面倒臭いことが山のようにある。

それを市場的な視点で言えば ” 非効率 ” と捉えるのは当然で、自分を含めて今を生きる多くの人たちの認識も同じだろうと思う。そんなことは百も承知で、冒頭にあげた若者が都市を離れて農業にいまから向かうのは、どんな欲望がそこにあるからなんだろう?

ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ

ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ

 

 内田さんの話をよく読む人ならご存知のクラ (交易) - Wikipediaがヒントになる。クラ交易というのは、”クラ”と呼ばれる装飾具を、異なる部族間で贈り合う風習で、クラ自体にはとくに価値はない。ただ、そのクラを贈り合うプロセスを維持することで、部族間を隔てる島々を渡るための航海技術や造船技術を持つことや、敵になりうる部族のなかに自分の協力者を作る能力など、人間として成長するプロセスがお互いに必要となる。

クラを贈り合うという(一見無駄な)風習を維持することで、それぞれの部族に成熟した人間がつねに一定数維持されて、それぞれの部族が集団として生き延びる可能性が高くなる。

* * *

この視点を借りると、農業をするということ(周りの人との協力関係を作って維持していくこと、自然と向き合うこと、作物を育てる技術を持つこと)は、「今の時代のクラ交易プロセス」と言える。

冒頭にあげた若者たちは、自分たちが成熟した大人になりたいこと、またいまの社会に一定数の大人が必要なのにそれが足りていないという危機感から、農業に向かうということを無意識に選択しているのかもしれない。

その動きの走りに内田さんが名前をつけたのが「ローカリズム宣言」だと。

ドラマ 逃げるは恥だが役に立つ

 「逃げるは恥だが役に立つ海野つなみさん原作

 年末年始の再放送も見て、このドラマが人気になったのはガッキーの魅力だけではないことがやっとわかった。

二回目を連続して見てやっと気づいたのだけど、「対話」によってお互いが成長して変わっていくことで問題を解決していく、というドラマは昨今稀なんじゃないかと。技術も必要なく、お金も関係なく、ただ相手と向き合って正直な気持ちを伝え合って、傷ついて、火曜日のハグでなんとか元に戻って。

誰でも出来るのになかなか出来ないことをテーマにして、ドラマで見せてくれるから素直に憧れられる。個人的にはこのドラマで言うなら第8話あたりで終わってしまった自分の過去と向き合わざるを得なかったり。。。

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

 

 言葉の重みがどんどん軽くなっていく今だからこそ、言葉を大切にしてひとつひとつ味わって、言葉に責任を持っている姿がとても眩しいのだろう。そして、言葉をとっても大切にしているのに、同時に言葉だけでは足りないこともよく分かっていて、そこに「火曜日はハグの日」という発明をしたのが決定打だった。身体でしか表現できないことや伝わらないことを忘れちゃいけない。

しかしこのストーリーの良さも、主人公2人と取り巻く人たちの魅力がなければ伝わらなかったわけだし、キャスティグも最高だったと思う。最後の「恋ダンス」のガッキーの踊りのキレと笑顔もすごい。実際に恋ダンスの映像作って踊ってみたけど、踊るのに必死で笑顔なんてムリムリ!

まぁやっぱりガッキーありきかな。

本 運命の恋をかなえるスタンダール

 「運命の恋をかなえるスタンダール水野敬也さん著

万平聡子は過去にトラウマがあり男の人とうまく付き合えないまま大人になってしまった。あるとき本棚からなぜか本が一冊落ちてきて、それがスタンダールの恋愛論だった。そこからスタンダールの恋愛指南が始まる。。。

* * *

個人的にとても、とても、ためになった。恋愛妄想派の人はきっとこの本の主人公、万平聡子と(含む自分と)同じ失敗をしているハズなので紹介したい。

恋愛妄想派の人(含むガールズトークの盛り上がり)は、相手のことを自分が勝手に都合よく考えている間に ” (相手の)結晶化作用 ” がどんどん進んで、なのに実際の関係はそのままで、そのズレが大きな原因の一つとなっていつも失敗する。

相手のことを妄想する時間を減らし、相手にとって ” 自分 ” が結晶化作用を起こすために行動をしていく。このこと一つでも妄想派の人には転機になるんじゃないだろうか。

運命の恋をかなえるスタンダール

運命の恋をかなえるスタンダール

 

改めて言うまでもないんだろうけど、相手にどう思われるかを気にせずに自分が素直に感情を出して、これは好き、これは嫌いというのを相手の会話の中で普通に出していくのが一番いい。だから気にしてない相手には好感を持たれることが多くて、気にしてる相手には自然になれないから好感を持たれにくい。

そういう自然さをまずは目指して、その中に少しだけいたずら成分をいれよと。悪女成分をいれよと。小悪魔成分でもいい。気があるかも?そぶりをちらっと入れて、ほっとくとか。相手の周りの人に親しそうに振舞って嫉妬を煽るとか。そこだけはプラスαのテクニックで。

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そんなん当然じゃん!って人にはおよびのない本なので、結晶化作用にピンと来た人は読んでみると水野敬也さんに感謝したくなるかもしれない。ちゃんと小説としてのオチも用意してるのはさすが。

本 考える練習帳

「考える練習帳」細谷巧さん著

得たもの3つ

 ・川上思考ー川下思考

・知らないことすら知らないことを、知らないことを知ってることに

・プレゼンや説明をするとき、構成は考えて作り、伝えるのは感情に訴えて

考える練習帳

考える練習帳

 

 いくつか考えを整理させてもらえた。

AI時代にどう考えていくか?というのが著者の出発点。まず川上思考と川下思考という見取り図が出てくる。

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川下思考        ーーーーー 川上思考

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川下思考の分野ですべきことはルールにきちんと従うこと、疑問をもたずにどんどんこなすこと。処理すること。つまりは現場。

川上思考で求められるのは、なぜか?を考えたり、そもそもを疑ったりすること。疑問を作り出すこと自体が大事。

自分がいる場所がどちらで、どちらの思考を大切にされているかをきちんと見極めて動かないといけない。特に中途半端に考える人は(自戒を込めて)。

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そして、川下思考の場というのは問題設定が決まっており、それを解決する・処理することがプロセスの大半になるわけで、AIが代替しうる。そう考えると今後、どれだけ自分を川上思考の打席に立たせるかが大事になってくるんじゃないか??そこで何をするかといえば、

 「知らないことすら知らないこと」:川上

       ↓

 「知らないことを知っていること」:川中・川下   

に変えていくことだと。つまりは ” 問題 ” を自分で探りあてるのがすべきことだと。適切な問題が設定されれば解決は他の人かAIに任せればいいと。

もちろん同じ人の中でも川下思考で動く必要がある場面は多々ある。川下から川上まで往復運動を意識せよというのが最終的なバランスだと思う。

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そして世の大半は「考えない人」でできていると認識すべきと。もし「考える人」が他人に説明するときには、普段の言葉遣いや抽象度で話しても、それは伝わらないことを認識せよと。具体化して、個別化して、経験化して、感情に訴える所まで練って、やっと伝わると。

そうしないと、その「考える人」は、伝わらないことを力説する「変な人」か「イタイ人」扱いされてしまうのだろう。

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中途半端に考える人間として、伝わらない失敗経験だけは事欠かない。その理由と改善策がわかったことはとてもありがたい。そして、川上思考が必要とされる仕事は何か?という視点で仕事を見られるようになったこともめっけもん。

本 会社はこれからどうなるのか

 「会社はこれからどうなるのか」岩井克人さん著

この本は本当に面白かった。資本主義の根本である「差異」の時代的変遷を追うことで、これからの自分の仕事って社会の中でどういう位置づけ、意味づけがあるのか?という遠回りだけど着実な足元を作ってもらった気がする。

その変遷を言葉にしてみるなら「あっちの町だとこれ売ってないから持って行けば高く売れるよ?的な商業資本主義から、生産設備もっとるけん、どんどん若い人来て働ていやーっていう産業資本主義になり、賃金あがったけん設備持ってても儲からんから、ブランドとか知的財産とか、デファクトスタンダードとか「情報」の差異で稼ぐんや!のポスト産業資本主義と。」という感じなのかな。

そして、国ごとの成長時代のズレが、そのまま高度成長期のズレになり、停滞期のズレになり。この話の延長でいうなら現在の日本の産業構造は、産業資本主義の後期に特化されており、そこからポスト産業資本主義に移行する時の混乱した(停滞)状態にあると。アメリカは日本の高度成長期にすでにポスト産業資本主義に移行するための停滞期を迎えていたと。

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)

 

 そういう社会構造の変化を前提として、その中で会社がどうなっていくか?という話に繋がっていく。結論から言うと、アメリカ的な株主主義ではない、形として多くの日本の会社に近い会社の在り方になるんじゃないかと。その理屈はポスト産業資本主義が求める「差異」を作り出す仕組みが、どうしても属人的なものになるからだと。その途中の理路は本を読むべし。

会社がどうなるか?という疑問よりも、自分がどう現代に求められる「差異」を生み出す過程に関わるか?の視点をもらったのが一番の成果。

本 うしろめたさの人類学

「うしろめたさの人類学」松村圭一郎さん著

 とても個人的なことだけど、いまこの世界が自分にはとても生きにくい。その生きにくさはたぶん、市場の商品取引の発想が社会の他の領域でも幅を利かせているせいじゃないかと思う。美味しい料理の感想にコスパって言葉を使うことの違和感。

その生きにくい世界を昔は、なにか革命みたいなことで変わったりしないのかなと思っていた。でもたぶん革命なんてあったら、たいがいもっと悲惨な状態になるんだろうことも大人になるにつれて分かって来た。そして社会が今あるように合わせて、生きにくいまま生きるもんだと、いつしか思うようになっていた。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

著者はエチオピアと日本を往復しながらフィールドワークをする中で感じた、うしろめたさをキーワードに、革命ではなくて少しずつ社会を世界を自分に合うものに変えていく方法を提案する。

その一番のポイントは、”社会”は固定した不変の独立した存在ではなくて、今いる人たちの振る舞いの結果として、ここに存在しているものだと自覚すること。たとえば二千円札は、みんながそれを使わないという行為によって本当に流通しなくなっている。そうやって社会は実は少しずつ変化しながら続いている。

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だから、いまある社会が自分に合わないのだったら、合わないところをちょっとだけ毎日揺さぶればいいんだと。その一つが”贈与”という手段を越境して使うこと。たとえばコンビニの店員さんに毎回きちんとお礼を言うこと。

全然やっていいのに、たんにそれが商取引の等価交換に含まれてなかったからやってなかっただけのことは、全然やっていい。道端のゴミが落ちてて気になれば拾えばいい。

そうやって越境する行為は周りの人の、越境したい気持ち(=うしろめたさ)に火をつけるかもしれない。その越境してもOKなんだって考えが広まると、たぶんそれがけっこう少ない割合でも、ガチガチに見えてた社会に隙間が生まれて全員が息をしやすくなるんじゃないだろうか。

本 人工知能と「最適解」と人間の選択

 「人工知能と『最適解』と人間の選択」NHKスペシャル取材班

 ”人工知能の発達はたぶん止められない”、という本文の中の言葉はその通りだと思う。できるのは(後追いで)法律で使用法の社会的制限を加えることだけだろうなと思う。間に合うかしらん。

”将棋ソフトの圧倒的な能力を見て以来、人間との練習に疑問を感じるようになったという棋士の話”は新鮮だった。がっちりと閉じた系であるゲームのような世界では、AIの手法に学ぶことが主流になっていく最初の一歩を見たきがする。

たとえば受験という仕組みもいまの形式が続くならば、AIに学ぶというか、AIがそれぞれのこども向けにカスタマイズした、正規でない、合格するための手法としての勉強法を、何万通りも開発して教え込んでいくんじゃないのかな。

そしてどこかの時点で記憶力に対する価値が暴落して、本当に人間にしかできないことだけが価値として残って、その能力を測る試験に移行するのは間違いないだろうけど、その採点は定義から言って、AIにはできないから手間がかかるんだろうな。

人工知能の「最適解」と人間の選択 (NHK出版新書 534)

人工知能の「最適解」と人間の選択 (NHK出版新書 534)

 

 ショックだったのは、アメリカの司法ですでにAIが知らないまに使われているということ。再犯率をAIで計算させて、その結果を参考にしているという。現在のAIは当然過去の判例をもとに学んでいるわけで、そこにアメリカなら白人至上主義の偏見が混じっていてその通りの結果が再生産されて、模範囚でも黒人の場合は早く仮免にはならないという状態になっているという。

このことが示唆するのは、現状主流の「過去に学ぶAI」の場合は、その社会が持つ偏見を必ず引き継いでしまうこと。そしてAIが社会を構成する仕組みの一部になればなるほど、その偏見が再生産されることに成りかねないこと。

その流れの上で、AIがつねに「最適解」を出す、というのは実は地獄なのかもしれないと思えてきた。常に同じインプットに対して同じ答えを出す世界って、狂気以外の何ものでもない気がする。そこまで想像したあとに人間のことを考えると、その一番の魅力はエラーやミスをすることじゃないかとすら思えてきた。

もし、というかかなり確実にAIが社会の中枢に組み込まれていったときに、僕たちが一番期待するのは、コンピュータ・ウイルスの存在かもしれない。