ココロミにきみ

本と体とプログラミング

BL(ボーイズラブ)漫画がなぜ女性の一部に流行るのかの話

BL(ボーイズラブ)漫画がなぜ女性の一部に流行るのか?という話を聞いて、考えさせられた 理由の一つは、(女性が出てこないから)「被害者がいない」からだと

で、これを聞いたときに「そんなふうに感じてたんだ!僕自身はあまり加害しないと思うけど、そういう社会だから分かる気がする」って思った

つまりBLが流行る理由は、「(A)目に見えるレベルの男女差別の社会構造や、何割かの人々のあからさまな差別言動」が原因なんだと思ったわけで

・・・これはある意味正しいと思うのだけど、問題はそれだけではなかった

大きな言葉である(A)だけでなく、これから書く(B)も含まれていた

というか(B)の方がより根深い問題なのかもしれない

ja.wikipedia.org

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例えば、僕が自己認識として「男女差別をしない行動や発言」を徹底的に自分に課したとする

でも、例えば根本的な考え方のなかに「(女性に言及せずとも)男はこうあるべき」が入ってるだけで、僕の発言や行動の節々に「(B)微量の加害しうる何か」が含まれてくる

この「微量」というのがポイントで、僕はそれに気づけない

でも「気づく側」はそれに「ピリッ」と、「イラッ」と反応する

「言う側(の僕)」は大きな意味でのルール違反(A)はしていないし、「気づく側」にとって「小さいイラッ」だから、咎めるのも何か違うかなと感じてしまう(のだろう)

でもその「微量の加害」からの「イラッ」や「ピリッ」の構造は確実に存在していて、毎回少しずつ積もっていく

それがどうなるかは言うまでもなく・・・

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この「(B)微量の加害」という構造は、「男女差別」の話にとどまらず、それぞれの人が持つ「大事にしてること」や、「常識」の中にも必ず入っている

この問題の扱いが難しいのは、表面的に差別につながってない考え方の中にも全部「微量の加害になり得るもの」が入ってるから、多くの人は「気づく側」には(自然に)なり得るけれど、「加害する側」であることは、指摘されない限り気づけない

つまり、誰もが意識的には「気づく側」で、知らないうちに「加害者」に同時になっている

その、わかりやすい例として現れたのがBLというジャンルの人気だったと