「ガチガチの世界をゆるめる」澤田智洋さん著
そもそもすべてのスポーツは、ある意味で障害者体験なんです
・・・たとえば、「サッカーは手が使えない障害体験」であるとか
この発想は目から鱗だった
スポーツのルールとは、その分野ごとに「何かを使えなくする、できなくすること」で、代わりに「それまで使わなかった部分を発展させて使うこと」を楽しむものなんだと
そして、日常生活において何かの障害を持っているということは、常にその人それぞれのスポーツを毎日している状態なんだ(否応無しに)
本当はすべての人がなんらかの障害を持っているんだけど、お互いに相手に特別なスポーツのことはよく分かっていないし、自分がやってるスポーツのことすら分かっていない場合も多いだろう
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だから「あえて一つ一つの障害をゲームのルールとして普遍化」して、スポーツとして実際にみんなで行うことで、それぞれの人が持っている世界が分かったり、視野が広がったりする
それが筆者が提唱する「ゆるスポーツの世界」
たとえば、「下半身に(はらぺこ青虫のような)着ぐるみを着て、這ってしか動けなくした」イモムシラグビーとか
筆者はその時に他人を巻き込むために笑いが大切だというけれど、その笑いの根源はきっと、ある種のルール=障害を起点に、自分の中の新たな能力が開発されることが嬉しくて、楽しくなるのが根本にあるんじゃないかと思う
もしくは自分が勝手に作ってきたイメージの世界が壊れて、新しい風が入ってくるのが心地いいんじゃないかと思う・・・やったことないから想像だけど
で、そのプロセスを通じて、自分が「頭のなかに作っていた障害」が少しずつ壊されて、「より多くの人が参加できる日常というスポーツ」をみんながプレーするようになるんじゃないだろうか
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本とは全然関係ないけど、スポーツの存在意義について今回考えさせられた
スポーツとは「神に供物を捧げるための儀式」や「戦争を模して体を鍛えたりする仕組み」としてスポーツが考え出されたと以前は考えていた
でも、きっとそれだけではなくて、スポーツというのは
「ルールという誰にでもわかる障害があり、結果が短期間でわかる」
という仕組みが、
「その社会が持っているルールを相対化して考えるための、実験的な装置」
としての機能もあったんだろうと
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「日常」と「別のルールが支配する世界」を往復する間に、日常に隠れていたルールの存在が意識化されて、ほっておけば固定化していく社会をもう一度捉え直す機会になるんじゃないかと
この考察は、作者が「世界をゆるめる」ために、まずスポーツから取り組んだことの説明になるかもしれない
ゆるスポーツやってみたい