ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 養老先生、病院へ行く

「養老先生、病院へ行く」養老孟司さん、中川恵一さん著

ファンとしては、ついにあの養老先生が病院にいく???そしてどうなった???

・・・という気持ちをまんまと出版社か編集者に絡め取られた気がするがまぁいい(笑)

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結果からいうとやはり養老さんは養老さんだと

そして養老さんの教え子であり、その主治医?となった中川さんは、養老先生を尊敬しつつも、その医療への態度をなんとか変えて欲しいというのがこの本で何回も語られていた

中川医師はすごく理解のあるお医者さんだが、それでもお二人の立場の違いから、医療に対して新たな疑問が浮かぶ

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それは、日本の医療では患者は0か100かの関わり方しか認めて貰えないということ

一旦患者になるとなったら全てを任せなきゃだめ、それ以外の選択肢は医療に一切関わらないという道しかない

患者が中途半端な知識で、あれこれ取捨選択することで最善の医療にならないことがあるのは当然だと思うけど、なんでそれが許されないのかが分からない

そりゃ実際問題として患者は途中で医療を受けるのを中止とかできるけど、そのことが医療の発想に組み込まれていないから、もうウチの病院は出入り禁止ですとか、医療者が反感を持つとか、他のサービスと比較して不可解な”業界常識”がある

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例えば、裁判だとか学校とかで、容疑者や被害者、生徒は自分に不利となることでもする自由がある

周りのプロフェッショナルたちは、クライアントが失敗するかもしれないことを込みで、できることだけをする(・・・そうでもないな)

それがどうして医療となると、クライアントの失敗権が剥奪されて、プロフェッショナルに全てを任せるか、医療から撤退するかの二択しかないんだろう

たぶん、クライアントが失敗や選択する自由を認めないサービスは、衰退し始めているのだろう

ある仕組みやサービスが始まって、高度化して、クライアントの理解や知識の及ばない膨大な体系が出来上がると、その集団の維持が一番の重要事項となって、硬直化していくのだろう

それが養老さんが一番嫌っていることでもある

だからこの本の題名は「養老先生、医療を受ける」ではなく、養老さんが「自分で必要な時・ところだけ病院に行くよ」という意味で「養老先生、病院へいく」という形になったんだろうと

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この人間が生きるのを手助けする根源的なサービスが硬直化していくのは、市場に任せれば解決するという考え方もあるし実際行われているが、それは行動原理が「組織」から「資本」に移っただけで、「人間」じゃない以上、結局、別の形での「失敗や選択を認めないサービス」になっていくだろう

おそらくこの話の一つの解決策は、人間が生きる集団の人口サイズを小さくすることだと思う

AIや技術が発達して、人間がもっと小集団ごとの集まり(数百人とか?)として生きられるようになったら、ルールを減らすことができて、養老先生は快適に医療を利用できるようになって、「養老先生、医療を受ける」という本になるんだろうなぁ