ココロミにきみ

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本 街場の親子論

「街場の親子論」内田樹さん、内田るんさん往復書簡

30年前の親と子が、それぞれ考えていたこと・思っていたこと(のズレ)が、現在の二人の立場から往復書簡という形で語られることで、「親子で共有するひとつの物語」として回収されていく様子を見守った気がする

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内田樹さんが離婚したとき、6歳くらいだった内田るんさんは、父親と生きることを選ぶ

離婚のショックを引きずった父親と、そのショックを感じ取り気丈に振る舞う娘が、なんとか暮らしていくためには、ある種のねじれを含む親子関係を作るしかなかった

そのねじれの意味を30年経って親子二人で話し合うことで、ある部分は解消され、ある部分はそれを抱えたまま生きるんだと

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内田先生ファンとしては、家族から見た内田先生の姿を楽しみにして読んだのだが、本一冊の間に(実際は一年近くの間で)、内田るんさんが”開いていく”ところを追体験したように感じた

なぜ、読者にとって赤の他人である親子の往復書簡が面白くなるのか(読み物として成立するのか)は、大事なポイントだと思う

 本の中の内田樹さんの言葉のなかに、

僕と平川くん(内田樹さんの親友)は基本的に「それぞれにたいせつなものはパブリックドメインに置いて共有する」ということをルールにしています。

というのがある

たいせつなものは占有せずに共有する

考えでも経験でも、大事だなと思ったら独り占めせずに、相方である平川くんに伝えて、二人で共有のものとすると

・・・なんだかこの考え方がすごくしっくり来て

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親子の往復書簡という極めてプライベートで珍しいものを、パブリックドメインとすることで、「親子のあり方の新しい物語」を読者にも共有してくれたように思う

そして逆にこの往復書簡は、「編集者と未来の読者の存在」が内田親子にとっての「仲人や親戚の人」のような役割をすることで、成り立ったように思う

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つまり現在の親子は、仲人や親戚の代わりをする親しい第三者的な存在を、なんらかの形で持つことでやっと、内田親子が経験したものを享受できるのではないかと思う