ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 レンタルなんもしない人のなんもしなかった話

 「レンタルなんもしない人のなんもしなかった話」レンタルなんもしない人 さん著

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何もしないけど一人人間がいることで成り立つサービスを提案したレンタルさんの話

例えばラーメン屋に一緒に並ぶ暇つぶしとか、勉強してる間だけ側にいてとか

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こんなサービスが人気が出るなんて?・・・と最初は僕も思った

お金払ってまで何もしない人に来てもらって、どんな意味があるわけ??とも

でも、だんだんレンタルさんを呼ぶ人の気持ちがわかってきた

その関係性を分かりやすく極限にして喩えるなら・・・

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 砂漠を一人で彷徨っている人(ユーザー)がいて、そこにもう一人の人間(レンタルさん)が現れた

その人は助けてくれるわけでもないし、気の利いたことを言うわけでもない

お説教をするわけでも、助言をいうわけでもない

ただひたすら、何かで困ってるユーザーの側にいて同じ時間と空間を過ごしてくれる

そのために、多少のお金は払うことになる

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でも考えて見たら、砂漠を彷徨っている人にとっては、害にならなくて自分の存在を認めてくれる人が側にいることは、すごい勇気づけられることだ

すでに砂漠を彷徨って疲れているから、これ以上、自分の気持ちを良くも悪くも乱す人は要らない、ひたすらに自分の存在を無言で肯定をしてほしいだろうなと

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逆にいうと、「ただ寄り添って欲しい欲求」の行き場がなかったんだなと

SNSがあるからこそ生まれたサービスなわけだけど、以前は、誰がレンタルさんのような存在を代替していたんだろう?

それともそんな欲求自体がなかったんだろうか?

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 いろいろ、レンタルさんがやってることを列挙すると・・・

・存在すること自体が価値で、何かの具体的な役に立たなくていい

・というか逆に一緒にいるために手間(お金とか)がかかる

・側にいる人間の価値を評価しないけど、側にいることはちゃんと認識している

・認識はするけどその意思を慮ることなく、自分の興味の赴くままに生きている

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さあ、この存在を一言で定義するなら???

一番しっくり来たのは「公的な大人のあかちゃん」という役割だった

変な話だけど、とりあえずの結論としてはこれが一番だった

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・・・この仮説に従うなら、昔は大家族だったから、常に誰の側にも赤ちゃんがいたから、レンタルさんは必要なかった

しかし今は核家族化して、さらには未婚化して、少子化になり、赤ちゃんと接する機会が「貴重品」となった

そこに現れたのがレンタルさんで、みんなが認めてるから安心して接することのできる「大人の赤ちゃん」の役割を引き受けてくれた

面白い!