ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 しょぼい生活革命

「しょぼい生活革命」内田樹さん、えらいてんちょう対談

いろいろ考えさせられた

例えば、ある人の教育観というのは、その人が日頃から多くの時間を使っている事柄の価値観になりやすいと

つまり、会社組織に属している人なら、ゴール品質を想定し、工程管理をして、無駄やエラーを排除し、同一製品を生み出すことが価値の基本になる

それを教育にも無意識に当てはめようとするのは想像できる

・・・それがどうなるかは、想像に難くない

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比べて、ひと昔前まえでは一次産業従事者が多かったため、水と肥料と用意して、あとはお天道様次第で、自然の恵みとして成果物ができるという価値観になる

それがひと昔前の教育観でもあった(と言われて納得する)

 その教育観で育った子どもはバラバラで、たまに大きく伸びる子がいて、(伸びない子もたくさんいて)それが例えば現在のノーベル賞受賞者たちにもなり

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ここからは想像だが、今後、AIが発展して現在ある人間の仕事が激減して、代わりに人間はその人の独自性を出すことが求められたり、AIでコストが合わない隙間の仕事をやるのが人の仕事になっていくとする

では、その価値観から生まれる教育観というのはどういうものになるのだろう?

上の仮定で言うなら大きく2つの仕事に分かれる(つまりは大きく2つの教育観になる)が、おそらくクリエイティビティなどを求められるのはごく一部の人で、多くはAI隙間仕事になってしまうのではないだろうか?

・・・この仮定ではいい未来が描けない、困った

しょぼい生活革命

しょぼい生活革命

 

もう1つ興味を持ったのが、  子どもを育てるのにも、老人を看取るのも集団の中でやったほうがいい、という話だった

子どもを育てるのは両親以外にも多くの人が関わったほうが、子供の情緒的にも、子どもや親の病気や怪我の場合にも安全網となって、いいだろうというのは想像していた

しかし、老人を看取るのも集団がいいというのは個人的に新しい視点だった

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それに類することを思い出してみるに、自分の祖父母や親戚の人が亡くなったときに、誰かの子どもが葬式の場にいて大声で騒ぐことで、すごく救われた気分がした

これは多くの人に共感できる話じゃないかと思う

つまり、なんとなくだけど、亡くなった親族がいても、それを受け継いでいく未来の世代がいることに、安堵の思いを自然と感じていたことなんだと

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この感覚を辿っていくと、自分が死んだあとも自分の子や親戚の子が生きていくことで、何かがつながっていく感じが自分を安堵させるのだろうと

ひいては日常生活の気持ちの安定は、親族の中で死んでいけるという確信からも来ているんだろうなと

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対談では、この集団のあり方というのが今までの血縁集団から離れて、何らかの価値観を共有する集団という話になっていく

その集団の中心となる人は、その構成員たちに対して、ある平等な視点を持つ必要があるという

ちなみに愛情ではない

あとは本文を見てのお楽しみ