「三人寄れば無礼講」 清水ミチコさんがいろんなゲストを交えての鼎談集
なかでも養老孟司さんの「独学じゃないと伸びない」が気になった
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この独学じゃないと伸びない、を考えてみる
この言葉が言いたいのは、学んだあとに独創性を出せじゃなくて、「学び方からして独創的でなくてはいけない」ということ
誰かが考えた学習プロセスじゃなくて、自分の興味やタイミングに合わせて、「たまたま出会ったものから学んでいく」ような動的な学び方でないと、伸びないのだと
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ああ、なんとなく分かった
つまり「学ぶことを生きたものに出来るかどうか?」という点がポイントなんだろう
既存の学問のほとんどは、誰かが実際に解決しなければならない困難を、解決する過程で生まれているハズ
その時点ではその学問は「生きている(いた)」
ただそれが洗練化されて体系化されて、スルメか冷凍保存されたものを、現代に焼き直して・解凍して食べようとしても、すでに「死んだもの」を扱うことになる
・・・文学的な表現になるが「死んだもの」から「生きたもの」を作り出すのは難しいのだろう
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だから、その学びを「生きたもの」にするためには、自分の「目の前の現実に即して学ぶ」しかない
側から見たら順番もめちゃくちゃだし、漏れもあるけど、学んでる本人からすると「必須」で「必然」で「納得いく」ものであると
ある意味本人ですら、自分が何を学ぶか予測できないし選択の余地がないとも言える
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結果として、そういう学び方をした人だけが、「生きたもの」を生み出すことができて、独創的な結果を残すことができる
養老先生の言いたかったことは、そういうことではないだろうか
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しかしこのことが事実だとすると、学校教育でこんな学び方はできない
学校教育以外のところで自分で学ぶときに初めて起こりうる学びの形
むしろ、大人向けの学びの形なのかもしれない
この本の鼎談に出てくる人たちは、みんなこの「生きた学び方」をしてきた人たち