ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 生きづらさについて考える

「生きづらさについて考える」内田樹さん著

生きづらいというのは、社会のルールが大きく変化しているのに、その変化の先が見えなかったり、ルールがマダラだったりするからなんだろう

そういう時代の道標は、物事の根本を考えてみることだと著者は言う

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その1つ、「サッカーをどうやって火星人に説明にするか?」という話が面白かった

サッカーというのは「お互いに相手が『贈与』を目指し行うもの」であり、その贈与される物(ボール)は、フェアとファウルという2つの状態がある(意訳抜粋)

とある

・・・つまり、サッカーというのは太平洋の島々で行われていた「(貝殻などの)クラ交易」の形を変えた存在なんじゃないか?と

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クラ交易では、クラ(=ボール)自体に価値はなく、それを相手に送り合うこと自体に価値がある

そしてその「クラ交易」を維持できることは様々な能力を持っていることの証明で、称賛の対象となり、権力や信頼や金が集まる

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具体的には、クラ交易(=ボールを運ぶ)を行うために、味方を作り、普段から信頼関係を作り、届ける手順を考え、アクシデントがあっても届けられるように準備する

相手チームはおそらく「自然現象や他民族」などの比喩で、海(=フィールド)を渡ってクラを運んでいくときに、出会う障害というニュアンスなんだろう

なんらかの伝統に則ってクラが運ばれている時はフェア(=正しい)であり、ルールに外れるとファウル(=不正)となる

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生きづらさについて考える

生きづらさについて考える

 

 ・・・こうやって説明されると、サッカーはクラ交易の子孫だと言っていいと思う

そして、サッカーが上手な選手は、クラ交易を上手に行った人たちと同じく、人々から称賛され、その振る舞いだけでなく、言葉も有りがたがられる

なにより、昔の人と同じく、いまを生きる私たちも「クラ交易」が行われるのを見るのが大好きなんだと!(笑)

そしてクラ交易に類するものは、未来にも存在するであろうこと

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ほぼ日で、糸井重里さんが「平安時代の人にも喜んでもらえるものを作る」という話をしていたことの意味がやっと分かった

・・・しかし自分で、サッカーがクラ交易につながる、なんてどうやったら思いつけるんだろうか?

ああ、そういうところで教養が効いてくるのか・・・