ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 デザインが日本を変える

「デザインが日本を変える」前田育男さん著

 この本を読んだことで、ブランドとは何か?というのが少しわかった気がする

それを自分の言葉で言うならば、まずは社員全員が「私たちの会社は何を為すべきものとして存在しているか」を共有するための「軸」だと思う

その軸があることで、それぞれの部署・部門が「自分たちはこのブランドをより実現させるためには何ができるか?」を日々挑戦し続けることが出来る

さらに、その軸を頼りに、お互いの部署・部門同士がお互いのことを積極的に知ることで、自分たちがやるべきことがより理解できる

そして商品の形となったブランドは、ユーザーにその主張をシンプルに伝えられる

・・・というかブランドという統一されたシンプルなものになっているからこそ、ユーザーにその思いが伝わるんだろう

最後にユーザーが感じたその商品(会社)のイメージが回り回って、「ブランド」に新たな価値や役割を与えるのだろうと思う

* * *

で、著者がマツダでデザインのトップになる前は、この「ブランド」という軸がなく、社員たちは1つの商品を超えて目指すべき目標がなく、それぞれの部署・部門は分断され、ユーザーには単一の商品のいい悪いのみが伝わる状態だった

そこに颯爽とあらわれたのが著者の前田さんで・・・

デザインが日本を変える 日本人の美意識を取り戻す (光文社新書)

デザインが日本を変える 日本人の美意識を取り戻す (光文社新書)

 

 このマツダのブランドの成立過程がこの本の骨子であり、面白い部分であるので、具体的な部分はぜひぜひ読んで欲しい

ひとつ面白さを言うなら、マツダには「ご神体」と呼ばれる、ブランドを形にした車のボディの抽象的原型のような物体が作られるようになったと(本文に写真あり)

それはレーシングカーの(タイヤのない)ボディ部分だけの感じで、つまりはマツダにとっての車のイメージのメートル原器のようなもので、そのご神体のフォルムなりイメージを実際の車として実現させていくことが、車を作るということになったのだと

* * *

話はずれるが、このブランドというものがなぜ、ヨーロッパではすごい力を持って大事にされているのに、日本では未だにそこまで重要視されないことが多いんだろうか

個人的にはやはりキリスト教文化圏の、死後も復活の日まで自分は同一である必要があるという人間観がベースにあるんじゃないかと思う

キリスト教圏の人間の、同じであり続けることへの文字通り死活的なこだわりが、企業という経済活動に自然に当てはめられたときに、ブランドになるんじゃないだろうか

そうやって考えると、日本でマツダのような形でブランドを構築していくのは、レアケースではないかなと思う

それよりも何十年・何百年と時間が経つなかで結果として残っていった老舗を、ブランドとして認識するのが、やはり日本人にとっては自然なんじゃないだろうか

個人のアイデンティティのようなブランドではなくて、天の利、地の利にしたがって成り立つ畏れ多い自然現象のように、そこに存在しているもの(お店)を、ブランドとして認識する、みたいな

 * * *

そして著者からの最後の宿題として、次の世代は物づくりから、サービス作りのほうに移っていく際のブランド作りをせよと勝手に受け取る

壮大だなぁ・・・