ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 猫も老人も、役立たずでけっこう

 「猫も老人も、役立たずでけっこう」養老孟司さん著

養老さんの言葉はいつもよく分からない。いつかわかるようになることを楽しみにして、言葉のシャワーとして浴びている。

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朝、起きたときに「私が昨日と同じ私である」という意識の働きは(養老さんに)言われてみれば、 かなり不思議な気がする。

例えば、人間の全てをコピーできるロボットがあったとして、そのロボットが誰かをコピーして起動した瞬間から、自分がその「誰か」自身だと思うだろう。それは人間が朝目覚めたときに自分が自分であると思うことと何の違いもない。

寝て起きるたびに違う人格になっていて、それぞれが「ああ、いつもの私だ」と思ってても何の不思議もない。

意識は、「昨日と同じ状況だ」とか予測の機能から発達したんだろうと思うけど、なんでそれを自分自身に適用したんだろうか。「昨日と同じ私である」という新たな認知パターンを導入したことで、どんなメリットがあったんだろう。

富の個人所有の開始には「同じ私」の概念が必要な気はするから、「私」の導入によって文化の発展の速度が上がって、それが生存確率の上昇につながったんだろうか。うーん、後付けな理由の気もする。

あ、「同じ私」という仮定は、「過去と未来の私の存在」につながるのか。時という概念が生まれるなら、たしかにメリットがありそうな気がする。

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しかし「同じ私」の成れのの果てが情報化社会であり、自分を「変わらない情報」として扱うのが普通になってきている。自分の属性としてのデジタル化できる情報が「主」で、ノイズとしての変化する肉体を持つ自分は「従」。

この情報と肉体のいびつな主従関係は、「同じ私」が生まれた以上必然の結果なんだろうか。それとも途中経過として通過せざるを得ないプロセスで、将来はもっと自然な形に戻るか、さらに新たな関係性が生まれるんだろうか。

いずれにしろ言葉で説明できない形になるのが理想だろうなぁ。

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あぁ、養老さんの本当のところが分からないと感じるのは、そもそも一番大事なところは言葉なんかで伝わるわけないって所から始まってるのかな。