医師が覚えるべき知識の量に圧倒され、その知識を使って科学的思考をする暇がなくなっているという話は興味深い。読んでるときたまたまラジオから流れてきた、胃がんの手術の手法は1800年代にできた3種類から発達していないという話とつながる気がする。
つまり知識取得とそのパターン処理だけで医療が回ってしまい、機器や薬の進展による新しい手法は生まれるが、知識の組み合わせと手技の開発による新しい治療法はあまり生み出されていないのだろう。
また、解剖実習はめちゃくちゃ丁寧に時間をかけまくってやる山田学派と、それに比べたらちゃっちゃとやってしまうメジャー派がある(あったそうな)。その山田学派で徹底的に鍛えられた横山医師は、股関節置換手術において筋肉や筋膜をできるだけ切らないDAAという手法を生み出し、それは患者の手術後のQOLを著しく向上させたと。
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この、覚えるべき知識の量の圧倒的増加に追われて、自分で考える時間がなくなっていく構図は医学に限らず、どの分野でもある気がする。
専門以外でも、個人的には政治や経済の分野について、どこまでの知識を追えばいいのか、なにがキーなのか分からなく、結果「考えない」状態になっている。代わりに、政治や経済のコンテンツの正否を判断せずに、それを判断してその見方を提示してくれる人の言葉に従うことにしている。その提示する人自体の信頼性だけを判断して。
その信頼性を何で判断するかというと、いまの自分ならその人の身体感(観)になる。身体を通して判断しているかどうか。
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解剖学を徹底的にやらされて育った医師たちは、結局、身体を通じて考える・感じることを、徹底的にやったんだと思う。
だとするとどの分野でも時代遅れ的に思われる、身体を通した泥臭い練習なり訓練が実はその分野を切り開いていく鍵になるのは、まだまだ変わってないのかもしれない。