ココロミにきみ

本と体とプログラミング

映画 君の名は

「君の名は」を見にいく。夜空の絵が綺麗でRADWIMPSの曲がすごく合っていた。ただ、感動してる人たちの気持ちがイマイチ分からなかった。年代的に主人公たちの世界から離れてしまっただけかもしれないけど、きっと求めるものが違った。

僕は従来の意味での「映画」を求めて行っていたが、この映画は(僕にとっては)ミュージッククリップだった。音と映像のライブと言ってもいい。従来の「映画」の枠組みとして新しいものを作り出したというよりは、音と絵がそれぞれ好きなものを求めて、過剰に、同時にそこに存在しているという「ライブ映画」だった。

トーリーはテイストだから絵と音を邪魔してはいけないわけで、日常性というか因果律というか、納得性はあってはいけなくて、そこを求めていると当然裏切られる。

って僕は感じてるけど、たぶん感動してる人たちにとってはストーリーも、ちゃんと納得できるんだろうなー。

ここに世代的な断絶があるんじゃないか?

例えば宮崎駿監督の作る映像は、理屈じゃなくて体感としての「納得性」が得られるんだけど、他の多くのアニメは、「走ってます」「恋愛してます」という台本のト書きを「映像という記号」にしたものに感じる。

つまり大事なのは感覚ではなくて、脳みそが「映像という記号」をテキストデータ的に理解して解釈すること。逆にいうと「納得性」は体感ではなくて、脳みそ経路でしか伝わらない、伝わりにくい世代になってるのかな?

もしくは映画という表現が直接与える「納得性」なんてどうでもよくて、音と映像というパーツをそれぞれ別々に取り込んで、自分の脳の中で好きなバランスで組み合わせて楽しむように焦点を合わせて作られてるんだろうか。

 

「君の名は」のヒットは、感覚同士が勝手につながりあう「体感」の時代の終わりで、代わりにそれぞれの「感覚」が別々に働いて、脳の中で理性的に「感覚」が処理されて、記述される時代になったのかもしれない。