ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 意識は傍観者である

「意識は傍観者である」この本はまだ読みかけだが、今年一番ドキドキしている。今読む本がないならまずこれを。

この本の前半が言いたいことを、喩えてみる。

通勤路や通学路を通っているとき、私たちは実はほとんど何も「外の世界」を見ていない。代わりに『脳の中に作られた通勤路や通学路のモデル』を見ている。

そして、その『脳内モデル』と「実際の世界」の ” 差異 ” だけがいわゆる”見る”ことに相当し「モデル修正情報」として脳に取り込まれる。昨日咲いてなかった花が咲いたとか。→『花が咲いている道モデル』に修正。

そうやって『脳内モデル』に従って筋肉が自動操縦されて、あなたは目的地である会社や学校に連れていかれる。

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

 

 この話はすごく納得がいく。たとえば、何事においても初めての経験が新鮮で面白くて時間が長く感じられる理由を説明してくれると思う。(ここから自分の推測)

初めての経験では、脳内に『その経験のモデル』が存在しなく、「実際の世界」のほとんどが ” 差異 ”として扱われ『新しい脳内モデル』構築作業がその場で行われるハズ。

わずかな ” 差異 ” だけを見ている他の既存経験に比べて、新しい経験において脳の働きはフルスピードになり、『脳内モデル』を作っては大幅に修正し、作っては修正し、というサイクルを猛烈に繰り返しているんだろう。

『新しい脳内モデル』の構築は、生き延びる可能性を増やしてくれることであり、脳にとって心地よいことは間違いない。時間が長く感じられるのは、『脳内モデル』に変化が加わる時間をいわゆる ” 時間 ” として認識してるとか?

 

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勉強や仕事に於いて、いかに『汎用性の高い脳内モデル』を作るか?の重要性が明らかになった。同時に、どうやって ” 差異 ” を常に・多量に取り込んでいけるか?という戦略も大事になる。

そうやって、自分を動かしているツモリの ” わたしの意識 ” って本当はどこまで、” わたし ” のやってることに関われているんでしょうね。もしくは新しいことを始めようとする時に手動している ” 何か” って、ほんとに何なんでしょう。

さーて続きを読もう。