ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 理不尽な進化

「進化」をイメージすると、どうしても今の自分たち人間を基準にして、今自分たちがあるために進化してきたのだ!という感覚を持ってしまう。でも全然人間は生きもののゴールでもなんでもなくて、人間という種族もおそらく絶滅して、その後にまた新たな知的生命体が次々と活躍するのだろう。実感はないのが自分の ” 進化論観 ” のレベルに違いない。

 

この本では適者生存というダーウィンの進化論を、なぜ自分たち素人は間違って受けとっているのか?や専門家たちの論争などの「リアクション」から本質を学ぼうとする。副題にある「(進化とは)遺伝子と運のあいだ」ということが実感できればゴール。

読んでみて、まさに自分が間違って進化論を受け取っていたことは分かった。「生き残りのために進化せよ!」みたいなよくある台詞は進化論とは関係がないとか。

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

 

 

「種」というレベルじゃなくても、「目」の発達を考えても自分の “ 進化論観 ” がよく分かる。つまり、今ここにある「目」の精巧な作りを考えると、どうやってこんな代物が「進化」で出来うるのだろう?と。目がない時代(5億年前)に皮膚の一部が変化して、光に反応しやすい何かが出来て、それが変わりに変わって今の形と機能になったと。

その途中の世代ってどうなん?って思ってしまうのは僕だけではないハズ。

たぶん僕たちの「機能」のイメージは例えば、「車」って部品一つ一つの段階では全然機能しなくて、最後のネジ一本まで嵌ったときに、やっと「車という機能」が動き出す、って感じなんよね。だから途中の状態って生存に有利とか思えないんですけど?みたいな。

「目」に話を戻すと、「目の機能」の今の状態をゴールと思ってるからそう感じるんだろうな。実は「目」はこれからもっと「進化」していくのかもしれない。後の世代から見たら、全然今って「目の機能が少なかったよね」なのかもしれない。たまたま自分たちが持ってる「目」の状態の偶然は、自分がいま生きていることの偶然と同じもので、既にある以上、客観的に見にくいことなのかもしれない。

そしてその論法で言うなら、今も僕たちの身体の中には進化の途上にあって、まだ意識できないレベルの「新たな機能」があっても不思議はない。

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NHKの「進化」の番組を見てさらに思ったこと。

「目」というのは5億年前に突如現れたものだという。目が進化した理由についてはこの本がすごく面白かったので参考まで:「眼の誕生」。地球環境の変化が眼の出現を促したことを書いている。

眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く

眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く

 

 それで、この本にも書いてないしテレビでも述べられてないのだけど、「眼」って何かの動物のたった一匹に突然変異で出たものなの?それとも一つの種の中で、同時発生的に何匹か何千匹かに突然生まれたんだろうか。

「眼の誕生」を読むといくつかの(多くの)種で同時発生的に「眼」が生まれたとあった(と思う)。一つの種の中で一匹の変異が有利で子孫をどんどん残すなら分かるけど、種を超えて同じ機能が広がる筋道の説明がない気がする。

個人的に思ってることなんだけど、人間の歴史で○○理論の発見って、一人の人間が偶然するんじゃなくて、世界で同時多発的に時間的僅差で起こってることが多いってことは、「ある環境条件が揃ったときに、動物は皆が新しく同じコトする」ってことなんじゃないかなって。

 

も一つ。ある個体が生きているときの状況は、次の世代に遺伝として関係がないというのは遺伝子自体としてはそうなんだろうけど、卵細胞自体は母体の生きている環境の影響を受けているのって、どのくらい「進化(適応)」に関係するんだろう?

その卵細胞の中で遺伝子は解凍されてコピーされるわけでしょ?つまりは母親の生きている環境・状況が、新たな命として細胞自体の段階でガンガン影響してるんじゃないの?そう考えたら環境の変化に伴って、同時多発的に変化が起こる理路がよく分かるんだけど。

 

最後に。「理不尽な進化」という概念を現在の世界に当てはめるなら、例えば ” グローバルな人材になるしかない ” というスローガンは「進化(適応)」ではない。好き勝手に自分のやりたいことをやってたら、たまたま歴史のスポットライトが当たって、上手く行きました!ってのが「事後的にわかる進化(適応)」であると、この本を読むと分かる。という意味では仕事・就職本とも言える。