内田さんと釈さんの聖地巡礼シリーズ第二段、熊野編。
二人+αメンバーで、昔から宗教的な場所として知られる所をめぐる。
今日はその出版記念トークに大阪は中ノ島まで行ってきた。
二人の結論は一緒で、熊野では探さなくても聖地が ”そこにどーんとある” から言葉にして来歴や事情を説明したり探したりする必要がないと。その感覚が分からない時はこの本を読めばと。まずは行け、と。
トークショーと本から2つ心に残ったことがある。
・すごく登りにくい急斜面の参拝道がなぜ存在するのか
・聖性を深く感じさせる宗教施設の近くには、なぜ土産屋や食べ物屋などの世俗的なもの(門前町とか)があるのか?
二つとも「一見そうしなくてもいいのに、そうある」というのがヒントになる。さらなるヒントとして身体に関する理解は、昔の人のほうが全然深かったんだなと。
本に触発されて、生駒山の峠を歩いてみた。近鉄の石切駅を出発して生駒山頂を通り、生駒駅まで1時間40分。坂がきついので身体のスイッチが7分くらいで入って、足運びが一気に楽になる。(登山とかしてる人には当たり前の感覚なのかな?)
しばらくすると足が自動で動き出す。その速度の一定感が面白い。時速2kmくらいでそれより早くも遅くも歩けない。
途中のお寺に寄るとなるほど聖地っぽい。その場所に居続けたくなる感覚。これを聖性と呼ぶんだろうか?
さらに進むと山上には生駒遊園地がある。すごく中途半端な所なんだけど、なぜそれが潰れない(潰せない)のかが今日の話でよく分かった。生駒には山上遊園地が、ある理由で必要なんだ。それをみんなが意識化してるかはともかく。
熊野にはもう行くしかない。年何回も。