座禅にまつわるよもやま話
私が通う座禅会のご住職が、ギリシャを訪れた際に 「デルフォイの神殿を守るスフィンクスに、『お前は大切なことを忘れている』と言われたように感じた」とおっしゃられるのを聞く機会に恵まれ
そこから、なぜスフィンクスが座禅につながるんだろう?という当然の疑問が湧き出て、一つ空想が生まれ
* * *
(空想)古代ギリシャのある小さな町の神殿には、スフィンクスという4本足の門番がおり、中に入る資格があるものを見極めていました
あるとき、三人の旅人が順にその神殿を訪れました
一人目の旅人は神殿に向かい、ほうほうの体で戻ってきました
旅1:「あの問いかけは何なんだ?全然わからん」
二人目の旅人が神殿に向かうと、噂通りスフィンクスが問うてきました
ス:「私は人間を通すものである、通りたくばわが問いにこたえよ」
ス:「4本足であり、2本足であり、3本足であるものは何か?」
旅2:「(へっへっへ、聞いた通りだな)それは人間です」
ス:「死にたくなければ、今すぐ立ち去れ」
その時、三人目の旅人がスフィンクスの前にやってきました
ス:「私は人間を通すものである、通りたくばわが問いにこたえよ」
ス:「4本足であり、2本足であり、3本足であるのものは何か?」
三人目の旅人は、スフィンクスを見つめた後、
旅3:「なるほど、お前は4本足だからその問いかけを担うのだな」
旅3:「私がそうであるか分からないが、かけてみよう」
と言った後、神殿に入ってゆきました
旅2:「なぜ、あいつを通したんだ?」
ス:「私は人間を通すものである、通りたくばわが問いにこたえよ」
(終)
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空想を後から振りかえってみると、「旅人3人が勝手に振る舞うことで、話が上手に展開して何らかの説得性を持つ」ことがあまりにしっくり来ることに違和感を覚え
なんで自分は旅人を3人と思いついたんだろう?
なんで3人だと展開がぴったりになるんだろう?
たしかに、旅人が2人だと展開が性急だし、4人だと冗長になるけど
・・・となると3人の行為には、それぞれが象徴する人間の振る舞いがあるんじゃないかと
* * *
最初から、旅人が3人というのは、当然のように頭に浮んだ
その3人の振る舞いをなんとなく置いていくと、物語の骨子は自然に浮かんだ
1人目は何も知らないわけだから、戸惑うだろう
2人目はその話を聞いて、うまくやろうとするだろう
3人目は周りと関係なく、自分の持ち前に命をかけて動く気がする
・・・そうすると、定型句しか語れない(気がした)スフィンクスとの会話がうまく噛み合って、「○○ではない」という形を通じて、問いの幅を狭めることが出来た
* * *
つまり、新しいモノゴトに出会った時、人は
「何だこれは!?」と驚いて逃げる
「こうするのが正しいはず」と他人を真似した対処をする
「答えは分からないが」と言いつつ自分の存在をかけて向き合う
という3つの行動パターンに分かれるんではないかと・・・私たちは無意識で自分たちの行動を規定しているんじゃないのかなと
(・・・どうでもいいことですが、座禅会に行ってみて、初めて「座禅」というものに向き合うときの人間の行動って、本当にこの3パターンの気がします)
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(後日談)
スフィンクスの問いに、「言葉としての答えではなくて、行動やあり方としての答えを返す」というお話は、すでにオイディプス王の話として有名だったんですね・・・
それを既に聞いて忘れてて、さも思いついたかのようにこの物語を考えたのでしょうか・・・(笑)
そうだったとしても、3人の話からの展開が面白かったので良しと!