ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 不便益という発想~ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも 行き詰まりを感じているなら、 不便をとり入れてみてはどうですか?

 「不便益という発想」川上浩司さん著

 ” 遠足のおやつは300円まで ” というルールの存在は、子ども心に工夫したり、考えたりして、楽しい記憶として残っている人は多いと思う。逆に " お菓子は幾らでもOK " だったら、特に楽しくもなく記憶に残っていなかっただろうと。

* * *

300円しか買えない「不便」が生まれたことで、値段と欲しい順の組み合わせを考えたり、安く買うために遠くまでいったり、おつりが余るくやしさを味わったり、チョイスの妙とそのための努力を伝えたくなるコミュニケーションまで生まれる。

不便だからこそ楽しいことってない??という筆者の主張に大きく頷きたい。個人的な話だけど今年ヨーロッパを2ヶ月旅して思ったのは、日本より不便だけど人間の自由度が高くて楽しいこと。

例えばサービスの担い手と受け手が使うエネルギーは、

 日本:サービスの担い手97%:受け手3%

 西欧:サービスの担い手30%:受け手70%

ぐらいな感じ。西欧では基本となるサービスはあるけど、それをどう使うかの自由度、つまり工夫の余地が、受け手側にたくさん残されている。モノゴトの勝手が分かるまでは大変だけど、慣れると自分が ” オトナ扱い ” されていることが感じられる。

* * *

西欧ではサービスの担い手側のエネルギーも少なくて済むから、結果として生産性が高くなり、逆に受け手側として(日本にいる時より)エネルギーが必要になるけど、頭と体を使う分、社会で暮らしてるだけで成熟せざるを得ない。

つまり、西欧では不便を残すことで、人間を成長させ、それによって社会が成り立つという発想が裏にあるように思う。逆に言えば日本では、サービスを作り出す側のときは人間が成長・成熟するが、受け手としては何も変化しないままになる。だから、自分の仕事としての専門分野だけが深くなり、他はこどものままになる。

* * *

こうやって改めて不便について考えてみると、長い時間の中では、不便を意識的に残している国と、便利を追求する国では、国としての成熟度が変わってくるのだろうなと思う。あっ、逆か。

成熟している国は人間に何が必要なのかを知っているから、わざと不便を残しているのかもしれない。

便利を追求するというのは、要するに人間よりエネルギーを使うということで、効率性という指標ではある時代の寵児にはなれるだろうけど、それを担う国民が幼くなっていって、結局は成熟した国に長い時間の間に支配されていくのだろうと思う。

* * *

便利であることの先に人間の楽しみはあるのか?というのは、とてもいい問いだと思う。