一年前ぶりの2回目を読む。読んだ人が思うであろう疑問を考えてみる。
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「イデア」の騎士団長の話し方が、相手が一人でも常に「諸君」であることは個人的にしっくりくるようになった。世界の捉え方は、単数ではなく「複数が基本」だったんだろうという感覚が生まれたから。
同時に「あらない」という騎士団長独特の言葉遣いも、「ない」は人の認識(エネルギー)をもらいにくいから、それを存在させるためにまず「ある」を持ってこないとイデア界では表現できないんじゃないかって。
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小手調べはこの辺までにしといて。
あの後半最後の異世界は何だったんだろうか?あの川や森や闇はなぜ必要だったんだろうか?さらにあの順番である必要があったんだろうか?主人公はその経験を経て何が変わったんだろう。免色であり免色でないものは何?まりえはなぜ免色の家にいなければならなかったのか。肖像画の描かれていいものといけないものの違いはなんだろうか。
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異世界は闇を主人公が屈みつつ降りていく所から始まり、谷の間を登り、免色のメタファーと思われる船頭に出会い、まりえのお守りと引き換えに川を渡る。
これは物語全体のメタファーじゃないだろうか。妻に離婚を申し出られた主人公は心に傷を負い=騎士団長が血を流し、狭いプジョーに乗って寒くて暗い東北に向かう=闇を屈んで進んでいく。そして谷に挟んだ地形=別荘地に住むようになる。そこで免色という存在が現れ、まりえの存在を軸にして谷の向こうとこっちを繋ぐことをし始める。。。その後はよくわからない。
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まりえが免色の家にいなければならなかったのは、最終的に主人公を免色が救い出すためのきっかけ作りであったことが一つ。そして免色は、まりえがすぐ側にいるのに、それに直接は接することができないという、免色のこれまでの生き方を変えるチャンスを逃す、という重要なプロセスだったんだろう。
まりえにとっては免色の家にいたのはどんな意味があったんだろう。
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肖像画はおそらく一般的にはもうそれ以上変化を欲しない人がその最高時点として描かれるものじゃないかと思う。だから、ピークを受け入れた人(免色とか)に対して描くのはいいけど、これから変わっていく人の完成させた肖像画は足枷にしかならないんじゃないだろうか。だからまりえの場合は未完が良かった。
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主人公が妻に「あなた変わった」と言われたのは、やはり騎士団長を殺し=自分が殺され血を流したことで、絵が描けなくなっていた過去の自分を一度殺したんだろう。
しかし妻の行動に関しては理解できないまま。。。
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村上春樹さんの作品は小説が第一義の作品ではなくて、その言葉たちが形作る「無意識や体に対する非言語の焦点となる物語」が第一義の作品であろう、という前回のブログのアイデアが今回は自分で実感できてない。意味に焦点を当てすぎたせいだろうか。