ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 みみずくは黄昏に飛びたつ

「みみずくは黄昏に飛びたつ」村上春樹さんに川上未映子さんがインタビュー。

村上さんがインタビューを喜んだ珍しい本。

以前から村上さんはストーリーを考えずに書き出すというのは知っていた。村上さんにとってストーリーの現れ方というのは、未知の洞窟を探検している時の吉田勝次(本「洞窟ばか」)さんの表現にとても似ている。その物語(洞窟)がどれくらい広がっているのか(いないのか)は、その物語(洞窟)の前に立った時には全然わからなくて、中を進んでみないと分からない。書いて(進んで)いくうちにあの部分とこの部分が繋がってくるんだ!と分かってくる。

奇しくも村上さんはインタビューのなかで、自分の語り口は古代の ” 洞窟のなかの語り部 " だと話していた。自然の深い闇の中につながるイメージが村上さんのなかにあるのだろう。その闇に入っていってなにかを取り出して戻ってきて、それを周りの人に言葉に変えて受け渡す。

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

その受け渡し方がまた独特で、執筆する際、どんどん記憶の抽斗からイメージが湧いてくるものを、意味を考えずに言葉に置き替えていくのだと。「騎士団長殺し」でいうと、騎士団長がイデアという名前を持つようになったのも、プラトンイデアとは全く関係なくて、「イデア(という名前)がぴったりだったから」という理由でしかない。

そうやってイメージに出てきたものがどんどん物語の中に取り込まれて、お互いに(勝手に)関係性を持ち始め、いつしかその流れの中で物語が勝手に結末を呼び込んでくると。

 これってなんだろう?村上さんは物語を作っているというより、巫女のように ” 媒体 ” となって無意識の世界からくるものを交通整理して、適切な名前をつけ、物語のなかに登場させるという役割を担って、あとはその現れた何かが勝手に話を進めていく。それも全て村上さんの頭の中での話なのはもちろんだけど。

村上さんは(無)意識?を分断できるようなことを言っていた。たぶん、その巫女的な言葉の生成の役割と、物語の力を発揮させる役割の両方が分離して存在することができるんじゃないかな。それぞれが干渉せずに別個に力を発揮できるから、そのことを自分自身に対して深く信じられるから、今のような執筆の仕方ができるのだろう。

しかしどうやって ” 物語の力 ” を血肉化なんてことが出来るんだろう。もしくはみんな持ってるもので気付けただけ??

* * * 

インタビューアーの川上さんの、「読者も村上さんと同じ無意識レベルまで潜って読んでるんでしょうか?」っていう発言は新鮮だった。考えたこともなかった。どうやら、そのレベルまで一緒に行くときは単に受け取るだけじゃなくて、なにかを差し出さないといけないらしい。自分自身の何かだと思うけど。

個人的には、村上さんが意味を考えずに名付けたものから立ち上がった物語に対して、解釈をせずに読むことが多い。いい加減に読んでるだけとも言えるんだけど、村上さんが巫女のように受け渡してくれた無意識からのイメージを、そのまま受け取って自分の中の物語に吸収しているんじゃないかって思えてきた。

川上さんは村上さんへのまたとないインタビューアーだった。

p.s.途中読みで感想書いていたら、あとから巫女だとか洞窟だとか全く同じワードが本文に出てきた。これは川上さんのインタビューが上手くて、イメージが読者に伝わった証だと思う。