ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 職業としての小説家

村上さんのこの「職業としての小説家」は ”村上さんのような作家” になりたい人に良い指標を与えてくれるかもしれない。

”村上さんのような作家” は、なろうと思ってなるものじゃなくて、人生のなかでたまたま「小説が書ける」という実感が降ってきてそれから始めればいい。例えばそれは、1978年春の神宮球場のヤクルト・広島戦で、二塁打が打たれたときに突然「小説が書ける!」という感覚が降りてきてから小説家になっていった村上さんのように。

こんな流れ任せの人生への態度は若いうちには納得がいかないことだけど。

村上さんは、自分が置かれた「専業作家として食べていける」立場に感謝して楽しんでいると同時に、おそらくそれがたまたま「与えられた役割」というふうに捉えているんじゃないだろうか。自分が小説家にならなくても、他人が書いた優れた小説を楽しんでいただろうし、たとえ小説家以外の仕事だったとしても、それを自分の「役割」として感謝して楽しんでいたんじゃないかと思う。

どんな場所でも、どんな仕事でもきっと村上さんは、その場の流れを生かして最大限の成果をあげるためと、それを持続させるための努力や工夫(毎日走るとかも)を惜しまないんだろうなと思う。そういう生き方をする人が、たまたま小説家になった一つの例というのがこの本だと思う。

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

小説の書き方のなかにも「流れ」を大事にする姿勢が現れている。村上さんは結末を自分も知らずに小説を書き出すのだという。小説を書いてる自分がまず第一読者になる。小説の最初の場面だけを立ち上げて、あとは自分の心の闇(人類が共通で持っているという物語)に毎日降りて行って、小説の材料を汲み上げてきて、それを小説という形に翻訳すると勝手に進んで行くという。(この心の闇に降りていく件は、よく村上さんが語ることなのだけど、経験のない自分には憧れつつ想像するしかない)

そうやって小説の第一稿が完成した後に、(それが長編小説であっても)何度も原稿を一から書き直すという。そうやって自分としては完成した原稿でも、さらに第二読者の奥さんや編集者に指摘された場所は、それが納得いかなくても必ず書き直すのだそう。そうやって流れの詰まりを何度も何度もとっていくのだという。

 

つまりは、流れを大切にする「生き方」がそのまま小説の「あり方」になっていることがよく分かる。これは小説家という職業に限らず言えるんだろう。「⚪️⚪️になりたい!」という生き方は、そういう仕事の形や人生のあり方になり、自分に来た「流れを大切に生かす」生き方は、村上さんが他の職業であった時のような生き方になるのだろう。

結局、村上さんの小説が賛否二分するのは実は小説の内容の話ではなくて、生き方が「合う・合わない」というのを突きつける小説にまでなっているからだと。