ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 街場の読書論

内田樹さんの本を読むようになってから、出来なくなったことが一つある。それは、作者が読む人(の知性)に敬意を払ってない本が、生理的に読めなくなってしまったこと。大問題だ(笑)

真に「古典」という名に値する書物とは、「それが書かれるまで、そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。(街場の読書論:本文より)

 数年あけての二読目でようやく目に止まった。その意味するところが人生経験を経て、やっと自分にも分かってきたのだろう。ドラッカーの「顧客の創造」を理解できたときとシンクロしている。

街場の読書論

街場の読書論

 

改めて考えるに、古典はその一つずつに「それまで世の中になかったアイデア」が入っていて、一つ一つが出た当時に世界最新の「何だこれは!?」だったんだ。それが作られたときは、現在の「古典」というイメージと違って、誰もまだ理解する人がいないものすごく「前衛的なもの」だったんだなと。

 

内田さんの本との出会い(何だこれは!?)は「村上春樹にご用心」と「下流志向」の二つ。それぞれ同じ作家だと知らずに読んで、

「なんでこの人は村上春樹さんのことをこんなによく分かるのだろう?」

「なんでこの人は僕の人生における失敗を、こんなに上手に説明できるんだろう??」

と感心した記憶がある。両方とも自分にとって読んだことのない類の話だった。でも自分のために書かれた本だとしか思えなかった。今思えば、まさに自分が顧客としてその瞬間に創造されたんだなと。

 

そのときから内田さんの本を読むようになった。内田さんは言うまでもなくむちゃくちゃ頭のいい人で、その視点による切り口は毎回面白いのだけれど、本を書くときは「そのアイデアが読む人にちゃんと理解できること、届くこと」を作者側の問題として捉えている。つまりは「古典」になるべき条件を常に満たそうとしている。

 

でもまだ「古典」じゃない。内田さんに共感する人というのは、自身の「負け」や「有限性」を心の底から自覚したことのある(少数の)人じゃないかと思う。逆にいうと、昔の日本だったら当たり前の「身体感覚」がなくなっている今の時代だからこそ、それを取り戻す「過渡期の道標」として内田さんの存在があるのではないかと思う。

頭でっかちに振れ過ぎた時代が終わって、身体とのバランスが取れてきたころに、ようやく内田さんの使命が終わって、その言葉が「古典」となっていくんじゃないかと思う。