ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 つぼみ

 「つぼみ」宮下奈都さん著

この短編集で「いけばな」の魅力を初めて知った。

いけばなの稽古というのは、それぞれの花の方向性や瞬間を感じる技術を磨くことと、その感覚を意思を介在させないで手に伝える訓練をすることなんだと思った。

つぼみ

つぼみ

 

もう小説の中身とは全然関係ない話だけれど、自分の思惑を介在させないというのは、芸術一般に共通する話なんだとやっとわかるようになってきた。というか、自分の意思を超えたところにあるものを広げていく行為全般を芸術と呼ぶんかな。

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小説に関しては数をこなして目が肥えたせいか、作者を超える話しか読めない体質になってきた(初めての作者の1冊目はとりあえず読んでみる)。

絵や音楽は、目の前のものが芸術なのかどうかの違いがまだよく分からない。作品に接した後の「感覚が○○になっていたら」というのがヒントではないかと、この本を読んで思った。

本 退屈なことはPythonにやらせよう

 「退屈なことはPythonにやらせよう」Al Sweigartさん著

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上司:「君、プログラムできるんだっけ?」

部下:「趣味程度ですができますよ?PythonってプログラムでAIとか…」

上司:「おおっ!そうか。いやいや、そんなAIとかすごいのでなくていいんだ。有休3日とこの本あげるから、ちょっと手伝って欲しいことがあってね」

部下:「なんですか・・・」

上司:「ほら、○○さん産休に入るから総務で人手が足りなくてさ」

部下:「・・・(いやな予感)」

上司:「エクセルとかPDFのが大量にあって、その処理をする人がいなくてねー」

部下:「・・・ハイ、ヨロコンデ ヤラセテ イタダキマス」

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・・・ という会話が成り立つ所で役に立つ本だと思う

退屈なことはPythonにやらせよう ―ノンプログラマーにもできる自動化処理プログラミング

退屈なことはPythonにやらせよう ―ノンプログラマーにもできる自動化処理プログラミング

 

エクセルやPDFなどのファイルを大量に処理するにはとても役に立つ。

プログラムをやったことのない人には難しいんだけど、プログラマーと言われる人種がやりたい仕事でもない所がミソ。

なので、趣味的にプログラムができる人に覚えてもらうのが一番早いかと。

本 独学プログラマー

 「独学プログラマー」コーリー・アルソフさん著

これからプログラミングの世界へ初めて足を踏みいれたい!という人の「最初の一冊」として向いている。

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プログラミングを始めてみると、最初にぶつかるのが「始めるまでの壁」。何がPythonというプログラミング言語で何がそれ以外なのかが、まずよく分からない。

そしてバージョン問題、ライブラリ問題、パス問題、開発環境問題などが絡み合って待っている。ぶつかる度に一つ一つクリアしていけば済む話ではあるが、この本で、そもそもプログラミングとその周りに何があるのかを知っておくだけで、トラブル時の問題の在り処を探す時間の無駄が省ける。

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具体的にいうと、Python自体の使い方から、コマンドプロンプトBASH)、正規表現、データ構造、アルゴリズムGitHubスクレイピング関数型プログラミングオブジェクト指向プログラミング、勉強の仕方、チームでの働き方まで書かれている。

逆にいうとどの項目もさわりだけだから、それぞれの項目に対して、次の本なりなんなりで勉強していくことが前提になっている。たとえば再帰関数とか、この本に出てくる例では使い方はわかっても、なぜこれが必要な概念なのかが全然分からない。

必ず出会う多くのエラーの対処とともに、自分でプラスαをネット検索しつつこの本を使うのがベストかと。

独学プログラマー Python言語の基本から仕事のやり方まで

独学プログラマー Python言語の基本から仕事のやり方まで

 

本当に正直な話、近くに一人でいいからプログラミングの世界の先達がいれば無駄な時間が何十分の一かに減るんだけど。

この本は次善の策。

本 猫も老人も、役立たずでけっこう

 「猫も老人も、役立たずでけっこう」養老孟司さん著

養老さんの言葉はいつもよく分からない。いつかわかるようになることを楽しみにして、言葉のシャワーとして浴びている。

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朝、起きたときに「私が昨日と同じ私である」という意識の働きは(養老さんに)言われてみれば、 かなり不思議な気がする。

例えば、人間の全てをコピーできるロボットがあったとして、そのロボットが誰かをコピーして起動した瞬間から、自分がその「誰か」自身だと思うだろう。それは人間が朝目覚めたときに自分が自分であると思うことと何の違いもない。

寝て起きるたびに違う人格になっていて、それぞれが「ああ、いつもの私だ」と思ってても何の不思議もない。

意識は、「昨日と同じ状況だ」とか予測の機能から発達したんだろうと思うけど、なんでそれを自分自身に適用したんだろうか。「昨日と同じ私である」という新たな認知パターンを導入したことで、どんなメリットがあったんだろう。

富の個人所有の開始には「同じ私」の概念が必要な気はするから、「私」の導入によって文化の発展の速度が上がって、それが生存確率の上昇につながったんだろうか。うーん、後付けな理由の気もする。

あ、「同じ私」という仮定は、「過去と未来の私の存在」につながるのか。時という概念が生まれるなら、たしかにメリットがありそうな気がする。

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しかし「同じ私」の成れのの果てが情報化社会であり、自分を「変わらない情報」として扱うのが普通になってきている。自分の属性としてのデジタル化できる情報が「主」で、ノイズとしての変化する肉体を持つ自分は「従」。

この情報と肉体のいびつな主従関係は、「同じ私」が生まれた以上必然の結果なんだろうか。それとも途中経過として通過せざるを得ないプロセスで、将来はもっと自然な形に戻るか、さらに新たな関係性が生まれるんだろうか。

いずれにしろ言葉で説明できない形になるのが理想だろうなぁ。

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あぁ、養老さんの本当のところが分からないと感じるのは、そもそも一番大事なところは言葉なんかで伝わるわけないって所から始まってるのかな。

本 不便益という発想~ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも 行き詰まりを感じているなら、 不便をとり入れてみてはどうですか?

 「不便益という発想」川上浩司さん著

 ” 遠足のおやつは300円まで ” というルールの存在は、子ども心に工夫したり、考えたりして、楽しい記憶として残っている人は多いと思う。逆に " お菓子は幾らでもOK " だったら、特に楽しくもなく記憶に残っていなかっただろうと。

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300円しか買えない「不便」が生まれたことで、値段と欲しい順の組み合わせを考えたり、安く買うために遠くまでいったり、おつりが余るくやしさを味わったり、チョイスの妙とそのための努力を伝えたくなるコミュニケーションまで生まれる。

不便だからこそ楽しいことってない??という筆者の主張に大きく頷きたい。個人的な話だけど今年ヨーロッパを2ヶ月旅して思ったのは、日本より不便だけど人間の自由度が高くて楽しいこと。

例えばサービスの担い手と受け手が使うエネルギーは、

 日本:サービスの担い手97%:受け手3%

 西欧:サービスの担い手30%:受け手70%

ぐらいな感じ。西欧では基本となるサービスはあるけど、それをどう使うかの自由度、つまり工夫の余地が、受け手側にたくさん残されている。モノゴトの勝手が分かるまでは大変だけど、慣れると自分が ” オトナ扱い ” されていることが感じられる。

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西欧ではサービスの担い手側のエネルギーも少なくて済むから、結果として生産性が高くなり、逆に受け手側として(日本にいる時より)エネルギーが必要になるけど、頭と体を使う分、社会で暮らしてるだけで成熟せざるを得ない。

つまり、西欧では不便を残すことで、人間を成長させ、それによって社会が成り立つという発想が裏にあるように思う。逆に言えば日本では、サービスを作り出す側のときは人間が成長・成熟するが、受け手としては何も変化しないままになる。だから、自分の仕事としての専門分野だけが深くなり、他はこどものままになる。

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こうやって改めて不便について考えてみると、長い時間の中では、不便を意識的に残している国と、便利を追求する国では、国としての成熟度が変わってくるのだろうなと思う。あっ、逆か。

成熟している国は人間に何が必要なのかを知っているから、わざと不便を残しているのかもしれない。

便利を追求するというのは、要するに人間よりエネルギーを使うということで、効率性という指標ではある時代の寵児にはなれるだろうけど、それを担う国民が幼くなっていって、結局は成熟した国に長い時間の間に支配されていくのだろうと思う。

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便利であることの先に人間の楽しみはあるのか?というのは、とてもいい問いだと思う。

キャンドル・ホルダー・ムーミン

 「キャンドル・ホルダー・ムーミン」 

ロウソクの熱い空気がファンにあたって、キラキラしながらムーミンたちが回るおもちゃ。部屋の空気が揺れるとそれだけで早さが変わる。

綺麗で面白いのになかなか売ってなくて手に入れるのに難儀した。ムーミンショップでも売ってる。定価1500円なのに、amazonでは足元を見られるときがある。

銀色、金と白とあるけど、おすすめはコッパー色かなと。通りに面した家だったら夜窓辺で光らせておくと最高。

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クリスマスの恒例アイテムになった。

 

本 声をかける

「声をかける」高石宏輔さん著

道ゆく女の人に声をかける。自分がどう思われるかが怖くて声がかけられない。声をかけても無視される、拒絶される、たまに返事がくる。自意識過剰であればあるほど上手くいかない。機械のように応答ゲームをするほうが上手くいったりする。

声をかけ続けるなかで、何かが自分の中で変わっていく。自分がしてるナンパを軽蔑しながら、声をかけてついくる女なんて最低と思いながら、そこにしか道が見出せない。ミイラ取りはミイラになっていく。

 声をかけ続けるなかで、ひとりの女性に出会う。それまでの ” 経験 ” が使えない。” テクニック ” は全て見透かされるようで、生のままの自分しか使えない。

声をかける

声をかける

 

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ナンパ・ケース・スタディのような本で、輪廻転成のような逃れられない苦しみが描かれるとは思わなかった。いつからこんなに人と出会うのが難しくなってしまったんだろう。

こんな自傷行為がいやだから、人と出会いたくない、付き合わない、セックスしないという人が増えるのは分かる。

そしてその方向性が小さくなっていく理由が想像つかない。

もしかしたら、人間は戦争や環境汚染で滅亡していくのではなくて、緩慢な人口減少で自然の歴史の中に埋もれていくのかもしれない。

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この本は、生身の人に憧れて、今の自分の属している自傷の大地の最果てを探検した人の記録と考えてもいい。そこから生身の人に出会える向こうの大地へは、自傷ではないやり方で大きく何かを捨てなければいけない。

その先の話はきっと明治の文学が教えてくれると思う。