ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 歯はみがいてはいけない

「歯はみがいてはいけない」森昭さん著

この本を読んで、糸ようじを買って使ってみた。

・・・開眼しました。

”歯磨き”の定義を変えることにしました。食べ物カスを取ることではなく、歯垢プラーク)を取ることを、これからの自分の歯磨きとしたいと思います。

歯はみがいてはいけない (講談社+α新書)

歯はみがいてはいけない (講談社+α新書)

 

食べかすは見た目や触感が気になるけど、口内衛生状で問題ではなく。問題は、歯垢プラーク)が口内に存在すること。プラークにはその一粒に細菌が何億と詰まっていて、増殖して血管に侵入して全身を駆け巡って、糖尿病や血栓やその他、それはもういやになるくらい体の健康を害してしまうと。(その理屈は本を読む)

実際、糸ようじを使ってみると、初めてみるプラークがそれはそれはたくさん取れてしまった。。。あまり描写したくない感じの。それなりに磨いてたつもりだったのに。つまり、体によくないプラークが生まれてからずーーーーーっと口の中にあって、体に悪さしてきたってこと(悲)

 そして、本ではデンタルフロスをお勧めしていたので、いくつか試し買い。感想をみていると製品の質の差よりも、人により歯が違うことよによる合う合わないが感想が分かれている気がする。ワックスありと無しとで、有名どころを一揃えしてみて、合うものを選ぶために先行投資。

しかし、ワックスって必要悪として受け入れていいんだろうかは疑問。それと、歯の隙間が狭い人がデンタルフロスを使うことによって、開いたりしないんだろうか?

リーチ デンタルフロス ノーワックス 50m

リーチ デンタルフロス ノーワックス 50m

 
リーチ デンタルフロス ワックス 50m

リーチ デンタルフロス ワックス 50m

 

本でいくつか気になることが書いてあったのでメモ

・寝ている間に細菌が増殖する➡︎朝はまずプラークを取ってから飲食を

・歯ブラシは1ヶ月に一度は交換(歯ブラシ自体に細菌が増殖する)

・歯医者の選ぶときのチェック項目

  歯科衛生士が一人じゃなくて複数いる

  CT、マイクロモニター、レーザー、相談室ががある(熱心さ)

  TC(トリートメントコーディネーター)

  CC(クリニカルコーディネーター)がいる

  土日と平日深夜診療してないこと(週末に勉強する時間がとれる)

  開業して3年以上

  Pにスタッフの写真と名前が載っている

  電話の対応が良いか

・患者として予約を確実に守ること

・日本は予防歯科に保険がない➡︎歯医者にインセンティブが働かない問題

 最後の予防に保険が効かないから、著者は自身が歯科医なのに自費診療で2万円を3ヶ月に一度払ってかかりつけ歯科衛生士にチェックしてもらっていると。

 

あと音波式の歯ブラシを併用すると。これも著者のお勧め。 

PHILIPS sonicare HealthyWhite 音波式電動歯ブラシ HX6711/02

PHILIPS sonicare HealthyWhite 音波式電動歯ブラシ HX6711/02

 

 本のタイトルは売らんかな的なものだけど、プラークと細菌を念頭において歯磨きを再考するのは必要だと思う。

 

本 聖地巡礼コンティニュード

 「聖地巡礼コンティニュード」内田樹さん、釈撤宗さんと巡礼部による対馬礼記

だから、なぜ対馬がすごいかっていうとね(google earth画像)、

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みてのとおり、対馬は国際交易拠点なわけです。日本の端っこではありません。外国からみたら、日本の始まりの地点と言ってもいいくらい。この本で、視点の転換をさせられました。

昔から、対馬を通って朝鮮半島や中国大陸の文化や技術や宗教が入ってきたと。そんなインターフェイスの部分に対馬がなぜなったのか?というのは、もちろん地政学的な利便性と、おそらく対馬が「気持ちのよい場所」だったからなのでしょう。

その2つのテーマがこの巡礼記には繰り返し出てきます。

 

聖地巡礼コンティニュード

聖地巡礼コンティニュード

 

不思議に思ったのは、そんな国際性豊かな対馬という場所にこそ逆に、大和言葉や古来の大和の風俗が残っていたこと。

インターフェイスになる部分は、それを自覚すると逆に自分のあり方が固定されてしまうんだろうか?良くも悪くも。常に異文化にさらされることで、自文化の固有性を意識させられ続けて、それが意識の前面に押し出されることで、無意識の変化が起こらなかったとか。

もしくはインターフェイス部分は外部とのやりとりのルールを一定化させてないと、手続きが煩雑になるため、インターフェイス自体がその主体を固定化させるのかもしれない。

最後に視点を変えて、対馬はそもそも朝鮮半島の文化圏に最初から属さなかったんでしょう。さあなぜでしょう。ひとつ大きな理由はわかっています。距離ではありません。

対馬に行きたくなった。でも知識が足らなさすぎる。

 

本 農ガール、農ライフ

 「農ガール、農ライフ」垣谷美雨さん著

この小説によると、ツテのない人が脱サラして農業を始めるときに、最初にして最大の壁にぶち当たるそうですが、それはなんでしょう?

  答えは「誰も農地を貸してくれない」ことです。

それ以外にも農業を営むには、ほんとにたくさんの壁や問題があることが、一人の女性が農業を選択して生きていく様を描くコトで伝わって来る。

この本は、中途半端な気持ちで農業を始めたい人を、早めに挫折させる優しさの本であり、農業で生きていく覚悟が決まっている人により知恵を授けてくれる本でもある。

農ガール、農ライフ

農ガール、農ライフ

 

農業を新しくやりたいなら、真面目でたゆまぬ努力で作物を育てることと、どうやって売るかのアイデアを出すことなんて当たり前で、プラスして自分ができないことをやってくれる協力者を見つけていく能力か運もないと難しいなと正直思った。

で、そういうことが全部できるのって、女じゃない?って男の自分は思う。自給自足できない国はどこかで滅ぶだろうから、農ライフ、つまりは国ライフを救うのは、女であるって勝手に思ったりして。

本 人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか

 「人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか」池上高志さん・石黒浩さん著

人工生命を作ろうとしている人のお茶話に立ち会うようで面白かった。いずれ無機物による生命体に移行するのが当たり前のように話している。人間の立場を超えて生命体学者のような存在というか。

その二人が機械人間オルタ(「altenative:もう一つの」から来てるんだろう)を共同で作って実験しながらの対談とコメントをまとめた本。

 
新作アンドロイド「機械人間オルタ」

AIは生命の理解に使う、という発想が面白かった。二人の考えでは、生命を理解するには現在の手持ちの道具だけでは無理で、相対論と量子論を結ぶスピノールのような新たな変数を持ち込まないと理解できないのではないかという。(スピノールは個人的によく分からない話なのだが、難しい問題に補助線(=新しい変数)を引くことで理解できることがある、という発想はわかる)

その変数を見出すのにAIを使うという話なんだろう。ただし、現在の科学は ” 意識 ” ベースであり、生命を理解するには無意識で行っていることまでをも含む必要があるとも言っている。AIの「教師なし学習」には無意識も当然含まれているんだろうけど、コントロールできるわけじゃないし、意識部分との分離もどうやるか分からんよな。

なんにせよ、現在の僕たちが普段使っている ” 理解 ” の手法を拡張するというのは面白いと思う。たとえば、無意識による ” 理解 ” というのも当然あって、さらに武道でいう ” 体による理解 ” というのもあり、ほかにも生物ごとの " 理解 " の仕方もあるだろうなと思う。そういう、違う次元の理解の仕方をまずは手に入れて、また、お互いを比較したり、融合させたりして探っていくのだろう。

* * *

生命を理解するのに、何か新しい変数が必要なことがAIで分かるとして、その変数自体の理解は人間はできるようになるんだろうか?

人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか

人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか

 

* * *

また、生命が物質の相互作用の何段階か上のレベルに生まれてくる作用(機能?)だと考えるなら、それは生命を構成する物質がなんであるかとは関係ないコトだと言える。

だから ” 何か ” を最下層のレイヤーにおけば(エネルギーでもいい)、その複雑さがいくらかのレベルになる上層には、ある種の生命が生まれてもおかしくはない、という生命観の拡張は新鮮だった。

目の前にあるもの(=生命)を理解するために、それを含むより大きなもの(人工生命+自然生命)を考えて、その一部として目の前のものが存在する、というアプローチはなるほどなと。

* * *

そうやって考えていると、人間が持っている感覚以外にもいくつも感覚ってあったっていいと思えてくるし、理解とか考えるとか感じる以外の知的活動もありそうだし、そもそも名前もつけられない活動があるのかもしれない。

また、例えば生命と非生命という発想で分けているけど、第3の分け方もあるかもしれない。さらには、生命や非生命とは違った別の存在の仕方もあるかもしれない。

* * *

そんな普段考えたこともなかった、発想の端っこを広げてくれただけでも、すごい本だった。

本 四月になれば彼女は

 「四月になれば彼女は」川村元気さん著

これも「ノルウェイの森」へのオマージュなんだろうか。「僕たちはみんな大人になれなかった」も含めて、”大人になれない男たち”シリーズは個人的にとっても”来る”。

どうしてその時、言葉を惜しまず気持ちを届けようとしなかったんだろう、どうしてカッコ悪くても追いかけなかったんだろうと。

今までの関係が最高だったから、一旦壊れてもそれと ” 同じ ” に戻さないといけない、全く同じに戻せないくらいならゼロになったほうがいい!って過去の自分は思っていた。

でもまぁ、ちゃんと ” 説明 ” したところで、追いかけたところで、一度壊れてしまったものはたいていダメになるんだろうけど。そう思いつつ、関係が ” 新しい別の形の何か ” になっても良かったんじゃないか?って今は思う。ゼロよりかは。

四月になれば彼女は

四月になれば彼女は

 

小説に出て来る、見えないものを写そうとするハルのような女の子と、話すようになった。全然プライベートを知らないし、あと2週間、3月になったらもう顔を会わすこともなくなる。この小説を読んでる最中はずっと、ハルはその子だった。ちょっと眠たそうでどこか遠くを見ていて、不器用で真面目で、目をしっかり見て話す。

目の前にいるのに、その子は過去の輝かしい時代のハルのように感じられた。自分が過去にタイムスリップして、ひとときだけ一緒の空間にいるかのように。

そう考えてみれば、自分の過去だってもう過去になってしまったものは、一つの小説だと思っていいのかもしれない。それを読まなければ、思い出さなければ、今の自分には関係ない。

逆に好きな小説を自分の過去にしてもいいのかもしれない。というか、そうなっちゃってる人がいても不思議ない。ってかいるんだろう。

僕には ” ハル ” がいた。そう思って生きていく

本 遺言。

 「遺言。」養老孟司さん著

メンデルの法則の何がすごいのかと。優性・劣性遺伝を綺麗にまとめて(A・aで表現して)、誰でも分かるようにしたと。まぁ発見した人だからすごいんだろうと思ってたけど、養老さんはそこがポイントではないという。

19世紀に生物の形質を「記号化(情報化)」した最初の人ということなんだと。そこからは、生物学ではなくて「情報学」になったんだと。逆に考えるとそれまで誰も、生物の形質を記号化して考えたことがなかったんだ。全ては単なる”違い”として認識していたと。

そして一度 ” 情報 ” に置き換えられた身体は当然、別の " 情報 "(身体)で置き換えられるという発想に繋がるわけで。臓器移植の始まりはメンデルにあったと言っていいのかもしれない。

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)

 

その " 情報 " を扱うためには、 ” 同じ ” を理解することが必要で、それは意識の働きになる。話の順番としては逆で、” 同じ ” を追及していくと都市文明ができ、一神教ができ、コンピューターが出来てくる。

”  同じ ”と双璧をなすのが感覚による ” 違い ” なんだけど、都市は感覚を感じることを極力制限していて、オフィスや家の中の環境を常に一定にしようとする。部屋の温度も床の平さも一定。

さらに人間が意味を見出さないもの、管理できないものはその場から排除される。屋内に虫が入ってくると大騒ぎするのは、虫が嫌いというよりは、意識の " 同じ " を壊されることに対する過剰反応なのかもしれない。

* * *

この話は少子化にも繋がる。なぜ少子化になっているかに対して、子どもを育てる環境になっていない、年収が足りないなど以外に根本的な理由があると。

それは、子どもという ” 予測不可能ないきもの( = 自然) ” に対峙することを、都市の人間が苦手とするようになってしまったからだと養老さんは言う。すごく納得する。だから田舎や特に離島で出生率が高いのは、自然に接することを当然として、感覚による”違い”を普通に受け入れて生きるのに慣れているからだろう。

 ちょうどドラマで「隣の家は青くみえる」をやってて、人工授精の話が出てくるんだけど、治療の一つに田舎暮らしや、野生に戻るようなものがあってもいいんじゃないか?

* * *

養老さんの考え方が大好きで、もっと理解したい、実践したいと思いつつ、それに染まれば染まるほど、会社の同僚と距離が離れ、 会社の環境自体に耐えられなくなる問題。その ” 違い ” を ” 同じ ” が好きな人たちは理解してくれない。

本 僕たちはみんな大人になれなかった

 「僕たちはみんな大人になれなかった」燃え殼さん著

(読んで思いついたことだけを書く)やるせなさの感じを思い出した。夜がながくて、むやみに友達とあてもなく過ごしたり、なりゆきで屋上でデートしたりしてた頃。人との距離感が今よりずっと近くて、ふとした拍子で関係が変わってしまったり。

近くにいて、なんだか親しいような気がしてたのに、みんなそれぞれの時間を生きていて、ある時突然(と僕は感じた)違う線路にそれぞれ乗っていて、たまさか近くなっていただけのことに気づく。

ボクたちはみんな大人になれなかった

ボクたちはみんな大人になれなかった

 

個人的な話だがそういう大事なものをなくしてしまったのに、なくしたことすらずっと気づかないでいた。 2年前に屋久島に行ったときにユースホステルに泊まったら、この小説のような”あの頃”の感じがそこにはあった。夜がながくて、初めての顔ぶれなのになんだか親しくて。

この感じが僕は欲しかったんだ!って気づいたのに、旅から帰ったら全然それをどこに求めていいのか分からないまま、いつしかその欲求すら忘れていた。その残り香がほしくて、僕は教育機関に勤めていたんだろうか。そしてそれが当たり前だけど得られないことに気づいて、落ち込んだんだろうか。個人的な話だが。

* * *

主人公は思い出の人に、記憶のなかでちゃんとさよならが言えた。大人にはなれなくても、ちゃんと前に向かって歩き始めた。

僕は桜木町駅の改札に消えた人に、まだ、さよならが言えていない。