ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 四月になれば彼女は

 「四月になれば彼女は」川村元気さん著

これも「ノルウェイの森」へのオマージュなんだろうか。「僕たちはみんな大人になれなかった」も含めて、”大人になれない男たち”シリーズは個人的にとっても”来る”。

どうしてその時、言葉を惜しまず気持ちを届けようとしなかったんだろう、どうしてカッコ悪くても追いかけなかったんだろうと。

今までの関係が最高だったから、一旦壊れてもそれと ” 同じ ” に戻さないといけない、全く同じに戻せないくらいならゼロになったほうがいい!って過去の自分は思っていた。

でもまぁ、ちゃんと ” 説明 ” したところで、追いかけたところで、一度壊れてしまったものはたいていダメになるんだろうけど。そう思いつつ、関係が ” 新しい別の形の何か ” になっても良かったんじゃないか?って今は思う。ゼロよりかは。

四月になれば彼女は

四月になれば彼女は

 

小説に出て来る、見えないものを写そうとするハルのような女の子と、話すようになった。全然プライベートを知らないし、あと2週間、3月になったらもう顔を会わすこともなくなる。この小説を読んでる最中はずっと、ハルはその子だった。ちょっと眠たそうでどこか遠くを見ていて、不器用で真面目で、目をしっかり見て話す。

目の前にいるのに、その子は過去の輝かしい時代のハルのように感じられた。自分が過去にタイムスリップして、ひとときだけ一緒の空間にいるかのように。

そう考えてみれば、自分の過去だってもう過去になってしまったものは、一つの小説だと思っていいのかもしれない。それを読まなければ、思い出さなければ、今の自分には関係ない。

逆に好きな小説を自分の過去にしてもいいのかもしれない。というか、そうなっちゃってる人がいても不思議ない。ってかいるんだろう。

僕には ” ハル ” がいた。そう思って生きていく

本 遺言。

 「遺言。」養老孟司さん著

メンデルの法則の何がすごいのかと。優性・劣性遺伝を綺麗にまとめて(A・aで表現して)、誰でも分かるようにしたと。まぁ発見した人だからすごいんだろうと思ってたけど、養老さんはそこがポイントではないという。

19世紀に生物の形質を「記号化(情報化)」した最初の人ということなんだと。そこからは、生物学ではなくて「情報学」になったんだと。逆に考えるとそれまで誰も、生物の形質を記号化して考えたことがなかったんだ。全ては単なる”違い”として認識していたと。

そして一度 ” 情報 ” に置き換えられた身体は当然、別の " 情報 "(身体)で置き換えられるという発想に繋がるわけで。臓器移植の始まりはメンデルにあったと言っていいのかもしれない。

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)

 

その " 情報 " を扱うためには、 ” 同じ ” を理解することが必要で、それは意識の働きになる。話の順番としては逆で、” 同じ ” を追及していくと都市文明ができ、一神教ができ、コンピューターが出来てくる。

”  同じ ”と双璧をなすのが感覚による ” 違い ” なんだけど、都市は感覚を感じることを極力制限していて、オフィスや家の中の環境を常に一定にしようとする。部屋の温度も床の平さも一定。

さらに人間が意味を見出さないもの、管理できないものはその場から排除される。屋内に虫が入ってくると大騒ぎするのは、虫が嫌いというよりは、意識の " 同じ " を壊されることに対する過剰反応なのかもしれない。

* * *

この話は少子化にも繋がる。なぜ少子化になっているかに対して、子どもを育てる環境になっていない、年収が足りないなど以外に根本的な理由があると。

それは、子どもという ” 予測不可能ないきもの( = 自然) ” に対峙することを、都市の人間が苦手とするようになってしまったからだと養老さんは言う。すごく納得する。だから田舎や特に離島で出生率が高いのは、自然に接することを当然として、感覚による”違い”を普通に受け入れて生きるのに慣れているからだろう。

 ちょうどドラマで「隣の家は青くみえる」をやってて、人工授精の話が出てくるんだけど、治療の一つに田舎暮らしや、野生に戻るようなものがあってもいいんじゃないか?

* * *

養老さんの考え方が大好きで、もっと理解したい、実践したいと思いつつ、それに染まれば染まるほど、会社の同僚と距離が離れ、 会社の環境自体に耐えられなくなる問題。その ” 違い ” を ” 同じ ” が好きな人たちは理解してくれない。

本 僕たちはみんな大人になれなかった

 「僕たちはみんな大人になれなかった」燃え殼さん著

(読んで思いついたことだけを書く)やるせなさの感じを思い出した。夜がながくて、むやみに友達とあてもなく過ごしたり、なりゆきで屋上でデートしたりしてた頃。人との距離感が今よりずっと近くて、ふとした拍子で関係が変わってしまったり。

近くにいて、なんだか親しいような気がしてたのに、みんなそれぞれの時間を生きていて、ある時突然(と僕は感じた)違う線路にそれぞれ乗っていて、たまさか近くなっていただけのことに気づく。

ボクたちはみんな大人になれなかった

ボクたちはみんな大人になれなかった

 

個人的な話だがそういう大事なものをなくしてしまったのに、なくしたことすらずっと気づかないでいた。 2年前に屋久島に行ったときにユースホステルに泊まったら、この小説のような”あの頃”の感じがそこにはあった。夜がながくて、初めての顔ぶれなのになんだか親しくて。

この感じが僕は欲しかったんだ!って気づいたのに、旅から帰ったら全然それをどこに求めていいのか分からないまま、いつしかその欲求すら忘れていた。その残り香がほしくて、僕は教育機関に勤めていたんだろうか。そしてそれが当たり前だけど得られないことに気づいて、落ち込んだんだろうか。個人的な話だが。

* * *

主人公は思い出の人に、記憶のなかでちゃんとさよならが言えた。大人にはなれなくても、ちゃんと前に向かって歩き始めた。

僕は桜木町駅の改札に消えた人に、まだ、さよならが言えていない。

本 座りすぎが寿命を縮める

 「座りすぎが寿命を縮める」岡浩一郎さん著

座り続けることが健康に悪いことは前から知っていたが、より具体的に知った。

・30分以上連続して座ることは健康によくない

・他に運動しようが、座りすぎの影響は打ち消せない

・連続して座っているとパフォーマンスが下がる

「座りすぎ」が寿命を縮める

「座りすぎ」が寿命を縮める

 

あとは本で詳しく読んでもらえばと思うので、ここからは個人的なことを書く。

ヨガをしたり自分の体に対して繊細に感じられるようになるにつれて、仕事場でずっとパソコンの前にずっと座ることが苦痛になっていた。自覚できるほどフラフラ歩き回ってるなーと自分でも思っていた(他人からはきっとなおさら!)。思えばそれは体からの防御反応だったのかもしれない。

しかしこれ、一度自分の体の声に従って体が気持ちいいように動くことを覚えてしまった今、もうずっと座る仕事は無理なんだけど、大丈夫かな自分の人生・・・?

* * *

家での仕事用椅子も、なんとなく動き回れるほうがいいなと、お医者さんが使うような丸椅子に替えた。この椅子だと長く連続して座る気にならないのが体のためにはいい。その分、集中が続かない問題はあるが・・・。(座った時の感触として、思ったより丸椅子の部分が広い。プラスチック感はあまり気にならない。動かすときの軽さと座ったときの動かなさのバランスがいい。)

この説に従えば、多動障害の意味も変わってくるのかもしれない。落ち着きがないというより体の声に素直に従ったら、授業中にずっと座ってられないと。

逆に授業中(仕事中)にずっと座ってられるのは、悪い意味で社会化されたことによって、体の声を無視して、” 意識 ” に座らされているのが本当のところかもしれない。

* * *

そういえば5年くらい前に一度、スタンディングの勉強やパソコン法を試したが、引越しを機に辞めてしまったことを思い出した。著者も言っているが、家はともかく職場でスタンディングで仕事するのは、周りの目という障害があると。

職場はさておき、家用にはこれに足場として、マルミツの心のバランスボードで最高の組み合わせじゃないかと。

* * *

本によると著者はアップル・ウオッチを使って、50分ごとに動くことを促すアラームがなるようにセットしているらしい。ここまではまだ手が出せないな。

最後に蛇足で付け加えるならば、”座る”ということ自体が変われば、もしかしたら長時間もOKかもしれない。自分の座禅の師匠である住職が「普通の人は”座る”が出来ないんです」と。「身も心も全部放ち、体に全て任せて”座る”ことが「座禅」なのです」と言っている。

その「座る」は体を殺さず、動いていることの一形態としての”座る”が存在しているから。まぁそれはそれ。

 

本 学ぶ心に火をともす8つの教え

 「学ぶ心に火をともす8つの教え」武内彰さん著

学校のあり方の一つの例を書いた本だけど、教育機関に限らず使えると思う。

たとえば、日比谷高校ではどの先生の授業も他の先生が見学に行っていいという。授業技術を共有化してチームとして蓄積していき、(先生の能力差による)生徒の不公平感を減らすためだという。

問題はいやがる先生にどうやって協力してもらうかだろう。その時に「共通の判断基準(その集団の目標や理想)」があれば協力を得られやすいし、「相互に見学を受け入れるのが当たり前の文化」を育てていくスタンスが大事なんだろう。

学ぶ心に火をともす8つの教え 東大合格者数公立No.1!! 日比谷高校メソッド

学ぶ心に火をともす8つの教え 東大合格者数公立No.1!! 日比谷高校メソッド

 

 また、生徒に自分自身を把握してもらうための面談を年4回やっていると。

現在の苦手科目は何で、どう伸ばしていくか、目標をどこに設定するか、学習の障害になっていることは何かなどを、教員と話してデータベース化していく。

そのデータベースがあることで、生徒は自分が3年間というプロセスのなかのどういう位置付けにいるか、どう成長してきたかなどを確認できるようになる。

さらにその情報は担任以外にも他教科の先生も把握でき、どの先生でもその生徒の相談に乗ることができるようになる(どの先生に相談しても良いと校長先生が宣言している)。

* * *

これ以外にもたくさんの取り組みがあるのだけど、生徒の大学合格がゴールになっていないことは大事なことだと思う。高校生という時間を全方向に使い切って、それが生徒の個人として、集団としての成長につながり、結果合格もしていく。

そうやって伸びていく生徒の可能性を、校長先生自らが信じきるからできる学校のあり方だと思う。

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このあり方を一つでも実践していきたい。

 

本 ローカリズム宣言

ローカリズム宣言」内田樹さん著

”別の視点”というのを意識させられた。

いまの時代に田舎に行って農業に向かう若者がいる。それを市場的な視点からみると、効率化がし辛く(儲かりにくく)賢い選択のようには見えないかもしれない。(それが分かってて)他の分野でも活躍できるかもしれない人が、あえて地方に移り住み、農業に向かう理由が想像つくだろうか?

改めて確認すると、農業は多くの周りの人と協力しないと仕事にならない ” 非効率な仕事”であることは変わらない。自然を相手にするから計画通りにいかないし、周りの農家との協力関係も作らないといけないし、仕事以外にも近所づきあいだとか無償の奉仕とか、面倒臭いことが山のようにある。

それを市場的な視点で言えば ” 非効率 ” と捉えるのは当然で、自分を含めて今を生きる多くの人たちの認識も同じだろうと思う。そんなことは百も承知で、冒頭にあげた若者が都市を離れて農業にいまから向かうのは、どんな欲望がそこにあるからなんだろう?

ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ

ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ

 

 内田さんの話をよく読む人ならご存知のクラ (交易) - Wikipediaがヒントになる。クラ交易というのは、”クラ”と呼ばれる装飾具を、異なる部族間で贈り合う風習で、クラ自体にはとくに価値はない。ただ、そのクラを贈り合うプロセスを維持することで、部族間を隔てる島々を渡るための航海技術や造船技術を持つことや、敵になりうる部族のなかに自分の協力者を作る能力など、人間として成長するプロセスがお互いに必要となる。

クラを贈り合うという(一見無駄な)風習を維持することで、それぞれの部族に成熟した人間がつねに一定数維持されて、それぞれの部族が集団として生き延びる可能性が高くなる。

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この視点を借りると、農業をするということ(周りの人との協力関係を作って維持していくこと、自然と向き合うこと、作物を育てる技術を持つこと)は、「今の時代のクラ交易プロセス」と言える。

冒頭にあげた若者たちは、自分たちが成熟した大人になりたいこと、またいまの社会に一定数の大人が必要なのにそれが足りていないという危機感から、農業に向かうということを無意識に選択しているのかもしれない。

その動きの走りに内田さんが名前をつけたのが「ローカリズム宣言」だと。

ドラマ 逃げるは恥だが役に立つ

 「逃げるは恥だが役に立つ海野つなみさん原作

 年末年始の再放送も見て、このドラマが人気になったのはガッキーの魅力だけではないことがやっとわかった。

二回目を連続して見てやっと気づいたのだけど、「対話」によってお互いが成長して変わっていくことで問題を解決していく、というドラマは昨今稀なんじゃないかと。技術も必要なく、お金も関係なく、ただ相手と向き合って正直な気持ちを伝え合って、傷ついて、火曜日のハグでなんとか元に戻って。

誰でも出来るのになかなか出来ないことをテーマにして、ドラマで見せてくれるから素直に憧れられる。個人的にはこのドラマで言うなら第8話あたりで終わってしまった自分の過去と向き合わざるを得なかったり。。。

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

 

 言葉の重みがどんどん軽くなっていく今だからこそ、言葉を大切にしてひとつひとつ味わって、言葉に責任を持っている姿がとても眩しいのだろう。そして、言葉をとっても大切にしているのに、同時に言葉だけでは足りないこともよく分かっていて、そこに「火曜日はハグの日」という発明をしたのが決定打だった。身体でしか表現できないことや伝わらないことを忘れちゃいけない。

しかしこのストーリーの良さも、主人公2人と取り巻く人たちの魅力がなければ伝わらなかったわけだし、キャスティグも最高だったと思う。最後の「恋ダンス」のガッキーの踊りのキレと笑顔もすごい。実際に恋ダンスの映像作って踊ってみたけど、踊るのに必死で笑顔なんてムリムリ!

まぁやっぱりガッキーありきかな。