ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 リスクと生きる、死者と生きる

「リスクと生きる、死者と生きる」石戸諭さん著

東日本大震災に関わらざるを得なかった人たちへのインタビューと著者の思いを綴った本。

津波で逃げ遅れた人の家族の言葉、原発で避難を余儀なくされた人、その後の復興をになった人たちの話は、どれもずっしりきた。例えば避難をしてもしなくても全てが後悔につながってしまう。自分だけがとか、あの人を残してとか。

リスクの評価というのは本当にどうしていいか分からない。一つ言えるのは、昔の人が遺した人間の行動パターンへの警告はたいてい当たると。例えばなぜ昔の人がわざわざ「津波てんでんこ」という言葉を残したか。見捨てられないという思いがさらに被害を生んでしまう、自分だけがという思いが自分も殺してしまう。そういうのを全部見越して、小さな言葉にまとめたものだから。

リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる

 

 個人的な話だが同僚が「福島の(生産物)ってやっぱ怖いよね」と言った言葉がいやだったんだが上手く返すことができなかった。何かを安全と危険の二分法で分けたら楽だし、自分だって同じことをどっかでやってるから何も言えないんだけど。

海外から見たら、いまだに日本全体が福島の事故で放射の汚染されているって考えている人が普通なんじゃないだろうか。「日本の(生産物)ってやっぱ怖いよね」って。

* * *

この本のタイトルにあるように、リスクと生きる、という覚悟を決めないといけないのかもしれない。めんどくさいけど、自分が分かる範囲で科学的な知識を使って、安全の程度や危険の程度を考えて、つねに微妙な不安と付き合って生きて行く覚悟。不安を増加させること自体が”コスト”だと考えて、人生の時間を取られることを一つずつ減らしていきつつ。

* * *

死者と生きるというのはもっと普通のこととして考えてもいいんじゃないかと思う。もともとそういう国だし。ってか、その方が幸せな気がする。自分一人のために生きるのってつまらないし、行動の範囲もアイデアの出方も狭まるし。

幸せに楽しそうに生きている人たちは、死者と生きている人も多いのかもしれない。

本 差分

「差分」佐藤雅彦さん他著

例えば、この3つの点の図だけを見てもなんだろう?くらいにしか思わないけど、

・ ・

 ・

 この下の図をみた後だと、上の図は表情のない顔にしか見えなくなる

・ ・

 ∀

 そして、この上の図から下の図をみたときに、「(唇がニコッと曲がって)笑った」という感覚が生まれる。それを「差分」と佐藤さんは呼んでいる。一つの図では何も生まれないのに、二つ以上の図があると生まれる感覚、というのにたくさん出会えて面白い。

差分

差分

 

途中に茂木健一郎さんとの対談があり、そこでこの「差分感覚」は、脳が一つ目の図を見たときに、その図に対応した脳細胞が発火し、次に似た図を見た時に、同じ部分は発火せず、「変化したところだけが発火する」=「差分」になっているのではないか、という話だった。

余談だけど、この実験のなかで人間の重要な性質が出てくる。

「最初の状態A」→  途中の状態B(描かれてない)→ 「終わりの状態C」

というようにAとCしか情報がない場合、人間はBを都合よく解釈する。例えばBが不可能であっても、その事実を人間はスルーしてしまう。

つまり誰かが自分にとって都合の悪いBの証拠を握りつぶして、シラを切り通せば、多くの人はBのことを問題ないと認識してしまう。

 * 閑話休題 *

 

脳の省力化の仕組みに遊びを見出した佐藤さん。さらには無意識下で感じる差分を追求して行きたいという。

今思いついたのだけど、村上春樹さんの作品は英語に翻訳されてもその文体が失われないという。それは村上さんの「差分」の表現が文章のレベルにはなく、無意識下のところで見出されるようになってるんじゃないかと。まぁ無意識下だからなんでも言っちゃえってとこではあるけど。

あと、不良がちょっといいことすると、過剰に評価されるというのは、その「差分」を見出した自分の脳の快感が、相手の評価に上乗せされてるんじゃないだろうか。

たぶん日常生活を送る上で、ほとんどの人が「差分」にしか意識が働いておらず、何かそのものに意識を向けるということに、逆に難しさを感じているかもしれない。「差分」に意識を向けさせない練習が瞑想じゃないんだろうか。 

 

本 頭の決まりの壊し方

「頭の決まりの壊し方」小池龍之介さん著

自然な”流れ”に身を委ねたり、心のバイアスをとっていった時に人がどういう感覚になるのか?ということに関して、この著者のような表現を初めてみた。

見聞きするものへの執着が落ちて、どうでもよくなればなるほど全身が活き活きと働いて、見えるものはバーンと鮮明に見えますし、聞こえるものはまるでこの身体の内部で響いているかのようにズドーンと鮮明に聞こえます。(本文より)

 著者曰く、脳の使われ方が変わるからですと。

頭の決まりの壊し方

頭の決まりの壊し方

 

そうであるならば(きっとそうなのだろうけど)、多くの人が座禅や瞑想を怖がるのは的を得ていると思う。だって、脳が変わってしまうわけだから、現在私たちが感じているところの”自分”が変わってしまうわけで、「同じであることが大好き」な脳からしたら、「殺される」のと同じことだから。

この話は最終ゴールの話で、その手前の数々の話も一つ一つ納得がいった。

本質的に縁がない人や状況をつなぎとめようとするためには、相当程度のエネルギーを浪費するはめになります。つまり疲れます。(本文より)

 「縁」というものを自分にとって存在するもの、と決めるならばすごく分かりやすい話だなと。今目の前にあることにこだわり過ぎずに(美人が近くにいるとか!)、いろいろ動いてみて、波が来ているところを探したほうが、おそらく上手くいくのだろう。

そうやって、どんどん”流れ”に身を任せられるようになると、”今”が充実していくのだと思う。

仏教の考え方が一番正しいとか、全てのはずは全くないが、生きていくツールとしてすごく強力なものだという気がどんどんしてきている。逆に、強力に見えるのにあまり使われてないなら、気づかない大きな弱点があるんだろうか。

それか昔の人はもっと普通に仏教に親しんで「今」に集中していて、実はみんなハッピーだったのかもしれない。

本 エッジエフェクト

「エッジエフェクト」福岡伸一さん対談集

柄谷行人さんとの対談では、「なにか大事な決断をするときに、死者とまだ生まれてない未来の人の言葉に耳を傾けること」 という言葉があった。内田樹さんも同じことを言う。死者と生来者(勝手に造語)の声に耳を済ますこと。

「自分の殻」というエッジを壊せということでもあり、「自分がいる流れ」を見よということかもしれない。敬虔な一神教徒の人は、同じ物事を神の視点からも常に見ているかもしれない。外部の視点を持ちにくい無宗教の人間としてはとても大事な方法論だと思う。

* * *

臓器移植の話になる。臓器の区分、たとえば”心臓”というのは人間が作った言葉であり、概念であり、自然が作り出した区分けではない。だからそれだけを取り出して移植するのは、そもそも無理筋だと思う。

西洋医学(哲学)のパーツに分けて考える還元主義からすると当然のように思ってしまう臓器移植だけど、自然を単に還元主義的に見て理解する考え方に過ぎないことを忘れて、自然が還元主義的にできていると考えるのは違うと思う。

そっか、概念のエッジを疑えということか。

ただ、生きるということに対して他人を害しない限り、臓器移植を含めて何をやってもいいとも個人的には思う。

エッジエフェクト(界面作用) 福岡伸一対談集

エッジエフェクト(界面作用) 福岡伸一対談集

 

 森村泰昌さんとの対談では、「美」という評価軸をもっと大事にしなければならないという話になった。「正しいこと」「善であること」が公的な評価軸になっていることに対して、徹底的に個人的な感覚である「美」の評価軸が埋もれてしまっていると。

「私はそれを美しいからいいと思う」をもっと復活させないと息苦しい。

個人的には「エビデンスは?」という言葉が浅過ぎていやなんだけど、今後AIが発達したらエビデンスがあるような仕事は全部AIの仕事になるから、個人的な感覚で、還元にしにくい「美」の評価軸による仕事、というのが残るんじゃないかと期待している。

価値観のエッジを考えろと。

自分で無意識に作っているエッジを壊す作業をするときに、福岡さんの本はとてもいい。

本 京都の壁

「京都の壁」養老孟司さん著

普通、都市は城壁で囲まれるのが普通。京都にはそれがない。日本では代わりに心の中の壁がそれに相当する。物理的に入れないわけじゃなく、心理的に入れない壁。その”壁”があるものとして日本人は振る舞うから、あるものとして機能する。襖や障子が外国人にとって、存在意義が分からないのもそのため。

京都はその、心の中の壁の一つの極みとして存在するのだろう。

京都の壁 (京都しあわせ倶楽部)

京都の壁 (京都しあわせ倶楽部)

 

そもそもなぜ京都が奈良時代のあとに選ばれたか?それはおそらく資源の問題である、ということを初めて知った。 奈良の都の資源が枯れ、大阪の淀川を取り扱う技術はまだなく、京都が選ばれたと。歴史の時間に当然のように「遷都」という言葉で習ったけど、もっと政治利害的な理由だと思っていた。頭でっかちになってたなぁ。

京都に都がある平安時代に日本語が完成したという。その時代は情報時代。貴族は御簾の向こうにいて、肉体から遠ざかる。その後、戦国時代になりに身体の時代が復活する。そして江戸時代はまた情報時代。明治が身体の時代になりと、言われてみると面白い。現代はもちろん情報時代。

今の京都は身体がまだ残ってるほうじゃないかと個人的には思うんだけど。

* * *

以前、書の先生が「京都の越してきて10年経つけどまだ入れてもらえない」とこぼしていたことがあった。その先生はそれからほどなくして亡くなられて、入れてもらえたのか分からないまま。京都の人になるのは1世代ではダメなのかもしれない。

京都の壁の向こうになにがあるんだろう。そう思って京都にいくだけで尽きせぬ魅力を引き出せるなら、壁がずっとあってくれたらとも思う。

本 身体知性

「身体知性」佐藤友亮(医師・武道家)さん著

医師が覚えるべき知識の量に圧倒され、その知識を使って科学的思考をする暇がなくなっているという話は興味深い。読んでるときたまたまラジオから流れてきた、胃がんの手術の手法は1800年代にできた3種類から発達していないという話とつながる気がする。

つまり知識取得とそのパターン処理だけで医療が回ってしまい、機器や薬の進展による新しい手法は生まれるが、知識の組み合わせと手技の開発による新しい治療法はあまり生み出されていないのだろう。

また、解剖実習はめちゃくちゃ丁寧に時間をかけまくってやる山田学派と、それに比べたらちゃっちゃとやってしまうメジャー派がある(あったそうな)。その山田学派で徹底的に鍛えられた横山医師は、股関節置換手術において筋肉や筋膜をできるだけ切らないDAAという手法を生み出し、それは患者の手術後のQOLを著しく向上させたと。

* * *

この、覚えるべき知識の量の圧倒的増加に追われて、自分で考える時間がなくなっていく構図は医学に限らず、どの分野でもある気がする。

専門以外でも、個人的には政治や経済の分野について、どこまでの知識を追えばいいのか、なにがキーなのか分からなく、結果「考えない」状態になっている。代わりに、政治や経済のコンテンツの正否を判断せずに、それを判断してその見方を提示してくれる人の言葉に従うことにしている。その提示する人自体の信頼性だけを判断して。

その信頼性を何で判断するかというと、いまの自分ならその人の身体感(観)になる。身体を通して判断しているかどうか。

* * *

解剖学を徹底的にやらされて育った医師たちは、結局、身体を通じて考える・感じることを、徹底的にやったんだと思う。

だとするとどの分野でも時代遅れ的に思われる、身体を通した泥臭い練習なり訓練が実はその分野を切り開いていく鍵になるのは、まだまだ変わってないのかもしれない。

本 街場の天皇論

「街場の天皇論」内田樹さん著

この本で初めて腑に落ちたことがある。

なぜリベラル・左翼・知識人が力を持たないのか。それは政治的なエネルギーの源泉が「死者たちの国」にあることを知らないから。言い換えると、なにかをするときに「これでは死者たちに顔向けできない」という判断基準で動いていないから。

そして安倍首相は「死者(叔父)に付託された仕事している」自覚がある現在唯一の政治家であると。だからその政策は賛意を得なくても、政治的「力」への評価がされると。

街場の天皇論

街場の天皇論

 

さらには、

現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の付託を背負う首相」と「すべての死者の付託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している。(本文より)

個人的には内田さんの変遷と同じように、昔は宗教的なものは一切不要だと考えていた。しかし大人になるにつれて、合理性だけで人間生きてないよなと実感で思うようになり。そう思うようになったときに、日本人が宗教的な何かの持っていき場ってなんだろう?と思ったら、それが天皇なんだと。

宗教心ではないけれど、合理性以外の「なにかの軸」として天皇陛下が存在してくれていることのありがたさ。その軸がしっかりしているから、それ以外の軸(政治とか)が乱れようと日本人としてなにか平静でいられる。

そんなことを今まで考えもしなかったけど、それが仮想の軸だとしても、それが存在すると信じて生きるほうが個人的に元気が出る気がする。この感覚がおそらく「死者たちの国」に通じてるのだろう。