ココロミにきみ

本と体とプログラミング

本 ひとりぼっちこそが、最強の生存戦略である

「ひとりぼっちこそが、最強の生存戦略である」名越康文さん著。

対人関係のストレスの多くは、実は、現実の相手というよりは、「心の中の他人」によってもたらされるものです。(本文より)

いやーこれ実感。この本を読む直前がまさにそれ。仕事に会社、家族の人間関係で、直接起こった問題はちょっとなのに、そこで生まれた「言葉」が何度もなんども頭のなかで反芻されて、それがめっちゃくちゃ脳内暴風になり、最後は体力まで奪っていた。

ついには身体に症状として現れて、初めて自分が「心の中の他人に」囚われていることに気づいた。それまでは、こんなに心が穏やかで落ち着いてていいんだろうか?という日々を送ってたから自分は大丈夫だと思ってたのに。

SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である

SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である

 

 名越さんは、ひとりぼっちの時間を持つことから始めて、頭のなかから他人を追い出すには、瞑想や行(ぎょう)がいいという。一人で自分と向き合う時間をきちんと持つことは、(いまの世の中の考え方では)何も生み出さない無駄な時間と捉えられるけど、実はその一人の時間を持つことが逆に、世の中への自分のパフォーマンスもトータルで上げてしまうという。

おそらく瞑想という技術は、単なるいち技術ではなくて、自分自身のOSを書き換えてしまう、言葉とか字が読めるといったものと同じ、根本的な自己改変の技術なんだろう。だからこそ瞑想は「本気でやらないと効かない」と名越さんは言い切っている。

* * *

いままでなんとなく瞑想でもやってみようかな、って受け止め方をしていたけれど、今回、自分も瞑想が人生に必要だと腹を括った。日常でやってる何かを選んできちんと捨てて、その時間を瞑想に充てようと思う。きちんと師匠も見つけてその空気感をちゃんと受け止めようと思う。

未来の自分が、今日の自分に感謝できるように。

本 日本の覚醒のために

「日本の覚醒のために」内田樹さん講演集。

剣というのは、手を延長した道具ではありません。それを手にすることで心身が調うという装置です。・・・(中略)・・・剣を「依代」として巨大な自然のエネルギーがこの身体の流れ込んでくる。 (文中より)

武術をやったことのない人間としてこの視点は新鮮だった。自分の外部に主を置くことで、自然の力を知覚しやすく、利用しやすくするんだろうか。

勝手に妄想を続けると、この「剣」って、村上春樹さんにとっての「テキスト」ではなかろうかと。テキストという「依代」があることで、自然の力を村上春樹という媒体を通じて出現させることができる。その自然の力を、マラソンや水泳やその他なにかで調えられた村上春樹さんの心身が制御し、テキストという形に納めこむ。おそらく村上春樹さんの文章を書くという行為は、限りなく武術の振る舞いに似ているんじゃないかと思う。

日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)

日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)

 

邪悪さや嫉妬や暴力や怠惰、あるいは自己憐憫、自己規律の弱さ、そういったものは、そこを通じて「非人間的なもの」が侵入してくる回路なんです。(文中より)

これは村上春樹さんのリトルピープルなどの話から流れてきたものだが、よく村上春樹さんが言っている、「地下二階の闇は危険なんです。そのまま行って帰って来るのには技術が必要です」はこれなんじゃないかと。

つまり(自然の)闇のなかには善も悪もあって、自分がその通路となる以上は、その善・悪あるいは他のものまで、村上春樹という回路を通じて出現させてしまう可能性がある。だから、一切の邪悪さや嫉妬などを持たないでいられる精神状態を維持して、地下二階の暗闇に降りていく技術が必要ってことなんじゃないだろうか。

もう一つは善なるものを呼び込む技術なんだろうけど、それが何かはわからない。内田さんはわかってるんだろうか?

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話を本に戻すと内田さんが伊丹十三賞をもらったときの講演はとくに面白かった。伊丹十三という人をよく知らなくても、その彼が背負った(と内田さんが看破した)スケールの大きすぎる ” 荷 ” は、そういう問いかけの存在自体が新しかった。

なにかとんでもなく大きな課題を背負うと、それが「依代」なって、自然の力を自分という媒体を通じて出現させることにつながる、とも言えるかもしれない。

本 みみずくは黄昏に飛びたつ

「みみずくは黄昏に飛びたつ」村上春樹さんに川上未映子さんがインタビュー。

村上さんがインタビューを喜んだ珍しい本。

以前から村上さんはストーリーを考えずに書き出すというのは知っていた。村上さんにとってストーリーの現れ方というのは、未知の洞窟を探検している時の吉田勝次(本「洞窟ばか」)さんの表現にとても似ている。その物語(洞窟)がどれくらい広がっているのか(いないのか)は、その物語(洞窟)の前に立った時には全然わからなくて、中を進んでみないと分からない。書いて(進んで)いくうちにあの部分とこの部分が繋がってくるんだ!と分かってくる。

奇しくも村上さんはインタビューのなかで、自分の語り口は古代の ” 洞窟のなかの語り部 " だと話していた。自然の深い闇の中につながるイメージが村上さんのなかにあるのだろう。その闇に入っていってなにかを取り出して戻ってきて、それを周りの人に言葉に変えて受け渡す。

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

その受け渡し方がまた独特で、執筆する際、どんどん記憶の抽斗からイメージが湧いてくるものを、意味を考えずに言葉に置き替えていくのだと。「騎士団長殺し」でいうと、騎士団長がイデアという名前を持つようになったのも、プラトンイデアとは全く関係なくて、「イデア(という名前)がぴったりだったから」という理由でしかない。

そうやってイメージに出てきたものがどんどん物語の中に取り込まれて、お互いに(勝手に)関係性を持ち始め、いつしかその流れの中で物語が勝手に結末を呼び込んでくると。

 これってなんだろう?村上さんは物語を作っているというより、巫女のように ” 媒体 ” となって無意識の世界からくるものを交通整理して、適切な名前をつけ、物語のなかに登場させるという役割を担って、あとはその現れた何かが勝手に話を進めていく。それも全て村上さんの頭の中での話なのはもちろんだけど。

村上さんは(無)意識?を分断できるようなことを言っていた。たぶん、その巫女的な言葉の生成の役割と、物語の力を発揮させる役割の両方が分離して存在することができるんじゃないかな。それぞれが干渉せずに別個に力を発揮できるから、そのことを自分自身に対して深く信じられるから、今のような執筆の仕方ができるのだろう。

しかしどうやって ” 物語の力 ” を血肉化なんてことが出来るんだろう。もしくはみんな持ってるもので気付けただけ??

* * * 

インタビューアーの川上さんの、「読者も村上さんと同じ無意識レベルまで潜って読んでるんでしょうか?」っていう発言は新鮮だった。考えたこともなかった。どうやら、そのレベルまで一緒に行くときは単に受け取るだけじゃなくて、なにかを差し出さないといけないらしい。自分自身の何かだと思うけど。

個人的には、村上さんが意味を考えずに名付けたものから立ち上がった物語に対して、解釈をせずに読むことが多い。いい加減に読んでるだけとも言えるんだけど、村上さんが巫女のように受け渡してくれた無意識からのイメージを、そのまま受け取って自分の中の物語に吸収しているんじゃないかって思えてきた。

川上さんは村上さんへのまたとないインタビューアーだった。

p.s.途中読みで感想書いていたら、あとから巫女だとか洞窟だとか全く同じワードが本文に出てきた。これは川上さんのインタビューが上手くて、イメージが読者に伝わった証だと思う。

本 洞窟ばか

「洞窟ばか」洞窟探検家、吉田勝次さん著。

洞窟探検って勝手なイメージではRPGのダンジョンなんだけど、あれは誰かが作ったものなのですぐ飽きると思う。でも、自然が作った洞窟って脈絡のなさがきっとハマるんじゃないかと。人間に合わせて作られてないことの面白さ。コウモリの糞に腰まで埋まりつつ洞窟で迷うなんって絶対したくないけど、読んでる分には面白い。

洞窟ばか

洞窟ばか

 

写真がちらっとしか出てこないんだけど、人が横向きでぎりぎり通れるような細い場所をくぐり抜けていくといの感じって、動物の消化器官のなかに呑みこまれていく感じじゃないのかな。胃カメラのんだときの映像によく似ている。ドーム型の広い洞窟部分も壁が襞のようになっててほんとに内臓っっぽい。地球の内臓を探検しているんだ。

そういう横向きの話だけじゃなくて、東京タワーがすっぽり入る大縦穴を、ロープ一本で中空を降りていく洞窟もあるって、想像しただけでくらくらする。

自分はぜったいやりたくないけど、ハマるのは分かる。著者がなんども言ってるけど、これは中毒になると思う。

本のあと2つの面白さは、洞窟探検自体のリアルな話。トイレをどうするとか。そして著者自身の面白さ。著者じゃなかったら、すでに何回か死んでるであろうリアル・ダイハード人生。おすすめ。

 

p.s.身近な小洞窟

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本 田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

本 『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』 渡邊格さん著。

いいタイトルを考えたなと思う。腐って土に還っていくモノゴトを中心に据えて経済を回すって発想がいい。人間も最後は腐って土に還る(暇がないのが日本だけど)わけだし、このほうが人間の生きるリズムに合うに決まってる。

著者曰く、天然麹菌で穀物を発酵させようとするんだけど(世界初!)、有機栽培のものでさえ相性が合わない。そこに「奇跡のリンゴ」のように、無肥料・無農薬の自然栽培の穀物を使ったら、掛け算の成果が生まれたという。

その様を著者は、天然の麹菌が素材となる穀物の生命力の強さを推し量り、無駄に栄養を付けさせられた ” 弱い ” 有機栽培のものはすぐに土に還すべきだと「麹菌」が判断して腐敗させ、生存競争に勝ち抜いた ” 強い ” 自然栽培の穀物だけ発酵させた、という。

菌ファーストな人生を本気で送ってないと見つけられない視点だと思う。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

 

本の半分は著者が送ってきた人生の話で、喩えていうなら「いろんな菌を持つ天然酵母のような著者」が、その力を一番発揮できるはずの ” 自然栽培 ” に出会えず、まさに腐ったりしていた話。ブラックな会社で働いたり、マルクスを読んだり、搾取された環境で働いたり。

著者の人生の展開と、菌との付き合い方が変わっていく話は相似形のように読める。そう考えると自分が生きて働いている環境の価値観が、そのまま自分の考え方を作ってしまうんだろうな。

そして、腐る経済を回し始めた著者のもとには、志を同じくする人たちや、パンを喜んで楽しみにしてくれるお客さんがきている。お店を始めてからたった(失礼!)5年で。(・・・同じ5年をちょうどいまの仕事場で過ごしてきて、その成し遂げたものの彼我の差に愕然としている個人的感想はおいといて)

* * *

腐る経済のなかで生きていきたいと思う。手始めに菌ファーストを日常で考えるなら、まずは菌が一番多く住む ” 腸ファースト ” が 一番近いんじゃないだろうか。

物欲よりも、腸の居心地が一番良い状態を保つことを心がける。気持ち穏やかに暮らし、適度な運動、十分な睡眠、八分目のごはん、多様な食材、親しい人たちとのご飯などなど。

あとは仕事をどう腐る経済に落とし込んでいくか。AIを触ってる身としては、やはりそれを個体に落とし込み、寿命をあえて付与するなんてことかしら。

本 吹上奇譚

今週のお題「私の癒やし」

「吹上奇譚」吉本ばななさん著。

著者曰く「私がSF書くなんて世も末だ」と。でも実際は全然SFであることすら意識しなかった。ばななさんの小説はある時から、そーゆーのもありだよね」って思える人(思わないと生きていけない人)が対象だから、違和感ないんじゃないかな。

主人公ミミの、双子の妹のこだちがいなくなって、ミミが探しに行くというのが前半で、いささか村上春樹的な始まりだなと感じたけど展開はもちろん全然違った。

吹上奇譚 第一話 ミミとこだち

吹上奇譚 第一話 ミミとこだち

 

 個人的に人間関係で辛い時に読んだから「主人公のミミが心を開く」というプロセスが大事だった。ミミは心を開くことで他人の暖かさに気付けたり、誰かの小さなプレゼントに出会えるようになる。そして人に出会えるようになり、一つ一つがミミの力になり物語が動いていく。

心を開くって、実際どういうことよ?って毎回考えては忘れてまた探してたんだけど、「自分が変化することを自分に許すこと」だったっていうのを思い出した。個人的にこの小説と道端の花と、友達の愛情で再び心を開くことができて感謝している。

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あとがきで、著者がもう今はSFじゃないと読者の心に届かないという趣旨のことを言っていた。だからこそのSFという選択肢なんだろうけど。

現実に多くのことが起こりすぎて、中途半端な設定では現実とどっかでかぶって心の鎧が取れないから「いったん今からウソの世界に連れていきますからねー!」ってやったほうが、読者がウソを意識するぶんだけ小説に心を開きやすいんだろうな。

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吉本ばななさんの描く世界の人たちのような優しい人たちは現実にいる。もしかしたら、”一般的にいる” のではなくて、”関係性の中にしかいない” のかもしれない。少しずつ時間をかけて手間をかけて、愛情を惜しまず与え続けたら出会えるたぐいの人かもしれない。

本 Swift基本文法と応用

本 「プロを目指すSwift基本文法と応用」(この本読んで詰まった人向け)

プロを目指す Swift 基本文法と応用

プロを目指す Swift 基本文法と応用

 

 iPhoneのアプリを作ろうとSwiftの本を何冊か読んでいる。この本は知識に優先順位をつけていて、不要なとこをざっくり飛ばしてるので読みやすい。

それでもこの本に限らずSwift初めての人が(少しだけ)つまづくのが、Storyboardのパーツとプログラムを結びつけるところじゃないかと思う。

きちんとつまづいたたので、共有。(この本のサンプルプログラムだけど)

f:id:molingit:20171016132338j:plain

(⓪既にStoryboardに「テキストフィールド」と「ラベル」が配置済み)

①2画面表示にする

②「テキストフィールド」を選んで、ctrlキーを押しながらドラッグ して、class ViewControllerに持っていく(青い線が表示される)

③ @IBOutlet weak var ...input/outoput..がclass の中に 追加されれば成功(同じ記述が2つになるので一つ削除する)

④ その後現れるボックスのNameに「InputText」と入れる

⑤ labelの「result」も②~④を同様に行い、④のNameに 「OutputText」と入れればOK

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もう一つこの本で詰まった箇所があったので追記。

p.172の上から2行目の、class ViewControllerへのUITextFiledDelegateの追加って部分を見逃さないように。

cannot assign value of type 'viewcontroller' to type 'uitextfielddelegate '」ってエラーが出てたらそれは、p.173の3行目の

class ViewController : UIViewController,UITextFiledDelegate {

の追記を忘れてないか?

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余談だが、iPhoneのアプリ製作は、画面が中心なんだというのが意外というかなるほどだった。もちろんプログラミングだけで作り上げる生粋のプログラマーも多いんだろうけど。
画面同士の遷移をビジュアルに紐付けしたりする感じは、filemakerに似ている。パーツとプログラミングの紐付けの感じはExcelVBAや、今や滅亡しつつあるFLASHの造りがそうだった。

個人的にはそういうアナログとデジタルの間に位置するプログラムが好きだ。ってか、結果としてそういうのばかり選んでいることに気づいた。Pythonのlot対応しかり。

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近い将来、AIがプログラミングのややこしい部分を引き受けてくれて、人間は画面遷移の指示や、インターフェイス部分の設計だけする形になっていくんじゃないだろうか。

さらに将来はプログラミングの概念自体が全部AIに含まれてしまって、人間は欲望するだけでよくなるんだろうけど。

プログラマーというのも20世紀終わりから21世紀の前半のみに存在した、一過性の職業だったと記録に残るんだろうか・・・。